禅と念仏(6) 良寛と念仏 (令和3年11月17日)

 

ナンテン(長岡禅塾)」

 

良寛禅師はその晩年に他力念仏に関する歌をいくつか残している。

そのうちから三首を拾ってみよう。

 

おろかなる 身こそなかなか うれしけれ 弥陀の誓ひに あふと思へば

草の庵に 寝てもさめても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

良寛に 辞世あるかと 人とはば 南無阿弥陀仏といふ と答へよ

 

禅僧良寛にこれらの歌のある事実を

どのように理解したらよいのであろうか。

そのことがここでの問題である。

 

この問題に関しては

大峯顕のすぐれた論考「良寛-その詩と宗教」

『浄土仏教の思想 第12巻』(講談社、1992)がある。

今それを手掛かりにして考えておきたい。

 

まず、大峯顕は良寛の仏道または宗教性を

彼の「愚の自覚」に定位する。

「大愚良寛」は良寛が自らに付けた号である。

 

大峯はそこに、「禅でありながら、凡夫が凡夫の性のままで

仏に救われるという他力浄土門の道に通じあうような消息」

があり、そのことが良寛禅の特色がある、と述べている。

 

その例の一つとして挙げられているのが、

文政11(1828)年11月12日に越後を襲った三条大地震の際、

良寛が友人の山田杜皐(とこう)にあてた見舞いの手紙である。

(大雲「長岡禅塾物語」第5話を参照)。

 

この手紙の中に、

「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。

死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」

という言葉がある。

 

普通、これは、悟りを開いた良寛の言葉として引かれる場合が多い。

事実、私も以前そのような思いでその言葉を引いていた。

 

しかし、そのような理解は、

その文だけを全体の文脈から切り離してみた見方であって、

正しい理解とは言えない、と大峯はいう。

 

山田杜皐あての手紙で良寛はまず、

心の底から友人やその縁者の無事を喜んでいる。

ついで良寛は次の歌一首を添える。

 

うちつけに しなばしなずて ながらえて かかるうきめを 見るがわびしき

(突然の地震で死んでしまったらよかったのだが、

こうして死なずに辛い想いをするのはさびしいことである)

 

そこに見られるのは普通の人間の自然の感情であって、

悟達の人の言葉ではない、と考えられるだろうが、

良寛はここではいわゆる悟りの高みにいるのではなく、

自分自身の愚痴を率直に表明しているのである。

 

問題の「災難に逢う時節には、云々」の一文は、

その後につづくところに注意すれば、

悟りの境位からの達観した言説だと言い切ることは難しい。

大峯はそのように考える。

 

そこで「これは、凡夫が凡夫になりきったところでの

一種の転換の消息を伝えている言葉ではないか」と大峯は推測している。

たしかにそう言われればそのようにも受け取れるのであるが、

私はその理解のしかたにちょっとひっかかりも感じている。

 

そのことはともかくとして、大峯によれば、

そのように凡夫の愚直に徹した良寛の禅は、

通常考えられるような禅と同じではない。

良寛は悟りの高みから自ら凡夫の位に降りて、

凡夫の愚かさを丸出しにしたのである。

 

かくして良寛は禅の硬直化した枠を

軽々と超え出ることのできた「禅からの越境者」であった。

そしてこのことは逆説的に言えば、

良寛こそ、真に自由な禅僧であったということである。

 

なぜなら禅は禅でないのが真実の禅であるからだ。

良寛自身、彼の「戒語」の中で「悟りくささ」を嫌っていた。

 

そうして見ると、良寛が晩年に阿弥陀を頼んだことは、

何らの矛盾のないことであったのである。

 

その点に関して吉野秀雄はつぎのように述べている。

「良寛は曹洞宗の悟達者として、差別界から無差別界へ超脱したればこそ、念仏宗であろうが日蓮宗であろうが、真言宗・天台宗であろうが、隔意なく出入していたのであって、彼が今日生きていたなら、クリスト教に対しても共感を示しうる部分にはこれを示したに相違なく、そういう良寛にわたしは尊敬して飽かぬのである。」(『良寛 歌と生涯』)

 

*大峯顕(あきら)、1929-2018、浄土真宗の僧侶、哲学者(大阪大学名誉教授)、俳人。

著書に『親鸞のコスモロジー』『花月の思想』『宗教と詩の源泉』などがある。

 

大峯顕さんからの最後の年賀状

 

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