祖渓さんのこと(令和3年12月8日)

 

祖渓さんと森本老師

 

貞心尼(前回の好日日記)のことで思い出すのは、

長岡禅塾で森本省念老師の侍者をされていた

佐藤祖渓(そけい)禅尼のことである。

私たちはこの尼僧さんを「祖渓さん」とお呼びしていた。

 

祖渓さんの経歴について詳しくは知らないので、

『森本省念老師』に載せられている老師の略年譜の中から

祖渓さんに関連する記事を抜き出しておくこととする。

 

1943(昭和18)年10月、

「佐藤静子(祖渓尼)が森本家に住みこむ(森本老師の母堂看護のため)」。

そのころ森本老師54歳、祖渓さんは21歳である。

 

1951(昭和26)年6月、

森本老師、「母とともに禅塾に移り住む」。長岡禅塾塾長就任はその前年。

「佐藤祖渓尼、出家して伊深の退耕院祖鏡尼の弟子となり、

一か月のうち十日間を禅塾に出向いて、

老師の寝たきりの母堂の看護を手助けする」。

母堂、1956(昭和31)年に逝去。

 

1958(昭和33)年、

「祖渓尼、伊深の退耕院から禅塾に移り住む」。

以降、2009(平成21)年11月25日に87歳で遷化されるまで、

ほぼ50年間を禅塾で過ごされる。

 

その間、1984(昭和59)年に森本老師が94歳で遷化されるまで、

侍者として老師に仕えて仏道修行に励まれ、

その後は嗣法の弟子浅井義宣老師ととともに禅塾の運営に尽力された。

(因みに浅井老師の禅塾入塾は1959年であり、塾長就任は1972年である)。

 

さて、わたしが祖渓さんを知るようになったのは、

わたしが浅井老師に参禅するようになってからだから、

1988(昭和63)年頃ころ、祖渓さんは60歳台半ばであった。

以来、遷化(2009年)されるまで大変お世話になった。

 

祖渓さんは気性の激しい方で、

わたしも叱責されたことがあったが、

他方、浅井老師の目のとどかないところで、

随分と塾生たちに細やかな気配りをされていた。

 

たとえば、祖渓さんは料理が上手だったので、

手慣れぬ塾生たちの料理を手伝ったりされていた。

とくに大接心の最終日には決まって散らし寿司を作ってくださり、

私たちは大いに舌つづみを打ったものであった。

 

ついでに述べておくと、禅塾開塾当初は事務職員の他に、

調理係のおばさん、掃除夫さんが常駐されていた。

 

浅井老師の時代になってから

禅塾を禅宗の専門道場(僧堂)と同じようにするという方針に変わり、

塾生が雲水(修行僧)と同じように、

すべてのことを自分たちですることになった。

そのために塾生の負担が増え退塾した者も出た。

 

それでもたまに長く在塾した学生もいたが、

そこには、時に辛い事を経験した塾生に、

そっと慈愛の言葉をかけられていた尼僧祖渓さんの姿があった。

 

それからもう一つ。

祖渓さんが森本老師を敬愛されていたことは言うまでもないが、

それと同時に森本老師の住まわれた禅塾をだれより強く愛されていた。

 

そのため祖渓さんは塾長浅井老師を飛び超えて、

直接わたしたちに作務の指示を出されることがあった。

そうすると命令系統が二手になって、

塾生たちはどちらに従って行動すべきか困ってしまうのだった。

 

このことでいつか浅井老師が、

「塾長はワシやのになぁ」と言われたこともあった。

が、すぐにあとに「これは内緒や。このことが知れたら

明日から料理を作ってもらえんようになるから」と、冗談をつけ加えられていた。

 

祖渓さんと浅井老師は外から見ていると、

まるで姉弟のように見えないこともなかった。

どちらも森本老師の法弟として、

ともに長岡禅塾をよく守って行かれた二人であった。

 

ところで祖渓さんの遷化が、

2009年11月25日であることは前に述べたが、

そのちょうどその一か月ほど前(10月13日)に

私は建仁寺での一年間の修行を終えて暫暇中であった。

 

それで翌年2010年4月から私は浅井老師の補佐役として、

長岡禅塾に住みこむことになった。

祖渓さんが私の暫暇後すぐに遷化されたことに、

今になって何か因縁のようなものを感じるのである。

 

祖渓さんが手入れされていた菊畑のキクの花(長岡禅塾)

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