一休の改宗問題 禅と念仏(7)(令和4年2月16日)

 

ツバキ(禅塾)

 

一休宗純禅師の『自戒集』に、

「寛正二年六月十六日に大燈国師の頂相を大徳寺に返し念仏宗となった」

という一文があります。

 

また『狂雲集』には、

その時のことを頌したと思われる漢詩も残っています。

 

その詩で一休はつぎのように述べています。

「最高の宗旨といわれる禅門を離れ、法衣をかえて浄土宗の僧になった。

みだりに如意庵や徳禅寺に住職して、長年開山大燈国師をだましてきた。

ああ、すまないことをした。」

 

それらを見ますと、

一休は寛正二(1461)年六十八歳のときに、

念仏宗に改宗したと考えることができるように思います。

 

(一休の場合、改宗という言葉が正しいかどうか分かりませんが、

ここでは一応そのように呼んでおきます。

そのことの真相については、後でまた触れることにします。)

 

(1)改宗の理由

そこで最初にその改宗の理由について考えてみたいと思います。

『自戒集』にはその理由を窺わせるような事柄として、

上記の改宗宣言文につづけて、

つぎのような当時の禅界の状況が述べられています。

 

一休によれば、当時、門弟などの間で、

師匠から印可(悟りを開いたことを証する認可状)を

授与されていないものが印可を受けたもののように装い、

そのことによって仏祖を誹謗する行為に及んでいる、

というような状況がひろく見られたようです。

 

一休はこうした状況を見逃すことはできませんでした。

この点に注目すると、

一休の改宗はそのような印可の問題に端を発する

禅界の腐敗した状態に対する反旗であった可能性もあります。

 

しかしながら、改宗は普通、

当人の実存に関係するもっと内面的な問題であるはずだと考えますと、

上で述べたような事柄は外面的にすぎるようにも思えます。

 

そこで一休が念仏宗に改宗するに当って逢着していた

深刻な内的な問題があればそれを知りたいのですが、

現在のところその点に関する資料を見つけることができません。

それでこの問題に対する答えは保留にしておきます。

 

(2)改宗の真意

つぎに一休の念仏宗への改宗の真意について考えておきます。

この問題を考えるに当って、私は『自戒集』に示された

改宗宣言文の奥書に注目したいと思います。

 

そこには、つぎのような署名捺印が見いだされます。

「前徳禅塔主、虚堂七世孫、むかし純一休、

いまは禅僧法華宗たちの念仏宗の純阿弥(花押)(印)」。

 

*「禅僧法華宗たち」は「禅僧となってやめ、法華宗となってやめた」の意。

*『自戒集』に見られるこの奥書は、印可授与に関して不正をはたらく門弟たちを排斥するための「方便的な表記」と見るのが通説であるようですが(今泉淑夫)、私はここではあえてそれを事実のことと見て、以下で試論を進めてみます。

 

その肩書の中で私が注目したいのは、

「虚堂七世孫」と「念仏宗の純阿弥」が並記されている点です。

 

まず「虚堂七世孫」についてですが、一休はそう書くことによって、

念仏宗に改宗した当時でもなお、自分が虚堂智愚に始まり、

大応、大燈、徹翁、言外、華叟、一休とつづく、

臨済禅の正伝者であることを隠してはいません。

 

つぎに「念仏宗の純阿弥」についてですが、

「純」は一休宗純の「純」で、

後の「阿弥」は普通、阿弥陀仏号と言って、

念仏宗の一派である時宗の男性信徒が授かる法名です。

 

このことはともかくとして、

一休はここで自分が念仏宗の信徒であると名乗っているのです。

 

そのように一方で禅の正統な伝法僧であることを隠さず、

他方で念仏宗の信徒であることを公言することは

矛盾のように見えるのですが、

そこのところをどのように考えたらよいでしょうか。

 

私はそのことを一休が禅を放棄して念仏へ全転回した、

というのではなく、

即身成仏に重点をおく禅の立場から、

凡夫の自覚にとどまる念仏の側への

重点の移動を意味したと考えたいのです。

 

そしてそのことによって、

一休は却って禅浄の区別を超えた釈尊本来の仏教に還った、

ということではなかったかと考えます。

 

そういう禅浄平等の立場を詠った一休の歌があります。

世をのがれ修行の道は別でなし 智者愚者ともに座禅念仏

 

*加藤周一は「浄土宗への彼(一休)の関心は、自力の限界に他力の意味を感じとったからでなければならない」とし、「改宗」の意味するところは、「禅宗の枠を超えて仏教の本質に近いはずであり、おそらく仏教の枠さえも超えて、一般に宗教的なるものの核心に近いはずである」と述べています。こうした考え方は私の考え方に比較的近いと思います。

 

(3)一休と蓮如の交流

最後に一休と蓮如の禅浄の枠を超えた交流の一幕を紹介しておきましょう。

ある人が一休に馬を描いた立派な絵に賛をお願いしました。

すると、一休は無造作に「馬じゃげな」と書いて与えました。

それを見て怒ったその人は次に蓮如に賛をお願いしました。

 

「馬じゃげな」という一休の賛を見た蓮如は、

事もなげに「そうじゃげな」と書いてかえしました。

 

一休も蓮如も「そのまま」のところ

~これこそ仏教の極意なのですが~

を賛にしたのですが・・・。

果して、その人はその時にどんな顔をしたでしょうか。

見てみたいものです。

 

*『自戒集』、平野宗浄訳注『一休和尚全集第三巻』(春秋社、2003)。

『狂雲集(上)』、平野宗浄訳注『一休和尚全集第一巻』(春秋社、1997)。

今泉淑夫『校注 一休和尚年譜(2)』(平凡社、1998)。

加藤周一「一休という現象」『日本の禅語録(12)』(講談社、1978)。

 

 

 

 

 

 

 

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