戒の日本仏教小史(令和4年3月2日)

 

白梅(禅塾近辺)

 

私は浅井義宣老師の提唱を通して、

日本の仏教の歴史を戒の観点から眺めてみる

見方について教えていただきました。

 

*戒の種類は出家と在家、また小乗と大乗の違いによって異なりますが、ここでは不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒、の五戒を念頭においておけば十分です。

 

そういう見方は仏教の実践者ならではの発想で、

紙の上だけで仏教を研究する人には、

なかなか思いつきにくいのではないかと思います。

 

先週の日記で「性と仏教」について書きましたので、

その流れで今回は戒の問題を中心にして、

ごく簡単に日本の仏教の歴史を振り返ってみます。

 

日本仏教史を戒の点から見てみますと、

それは同時に破戒の歴史であったようにも思えます。

六世紀に正式に伝来した仏教は、

聖徳太子が摂政になるとともに盛んになります。

 

しかし早くも推古天皇32(624)年には、

一僧による祖父殺害事件が起こり、

これを機会に僧による破戒の問題が、

天皇によって取り上げられるようになりました。

 

それにもかかわらず僧による破戒的行為は止むどころか、

いっそう目立つようになっていったと言えるでしょう。

701年の大宝律令中の「僧尼令」、754年の鑑真を招来しての

戒壇院の建立がそのことを物語っています。

 

もちろん立派な高僧もおられたのですが、

奈良朝およびそれ以降も破戒僧が多く出現したことは、

文献に照らせば明らかでしょう。

 

そのことは国家権力や政治勢力にむすびついた

奈良仏教や平安仏教が学僧の仏教としては盛んになったものの、

他方で宗教としての純粋性を忘れて世俗化し

堕落していったことと結びついています。

 

いま私は平安末期から中世へかけての文芸作品の中から、

そうしたことの一端をうかがってみたいと思います。

 

十二世紀初めに成ったとされる『梁塵秘抄』に、

「禅師は夙に夜行好むめり」(巻第二、四句神歌)

の一句があります。

 

「夜行」は現在でも僧堂の隠語として残っており、

「ひそかに夜の街に出る」の意で使用されています。

つまり破戒の敢行を意味しています。

そのかぎり当の禅僧は好んで破戒を犯すような僧であったということでしょう。

 

清少納言(966頃~1025頃)の時代、

僧侶の綱紀がかなり緩んでいたことが、

彼女の「今は、いと安げなり(当世はかなり気楽そうだ)」

と述べている坊さんたちの生活ぶりから推察できます。

 

そんな状態ですから、

僧侶が世間の人から「木の端などのように」(『枕草子』)

見下されていたとしても致し方のないことでした。

 

清少納言の言葉に同情して、

吉田兼好(1283~?)も「法師ばかり羨ましからぬものはあらじ」と述べ、

それにつづけて、法師は「仏の教えに背いているようにしか思えず、

脱俗の世捨人の方がかえって望ましい」とこき下ろしています。(『徒然草』第一段)

 

*このように昔から坊さんは人からあまりよく思われていなかったことがうかがえますが、その理由として坊さんによる破戒の行為が大きく関係していたと思われます。同じことはほとんど無戒状態となったように見える現在についても言えるのではないでしょうか。

 

さて、道長を頂点とする藤原政権の凋落、それにつづく源平の合戦、

さらに北条氏の支配にいたる政局の激動は、

都鄙(とひ)の人たちを困窮せしめ、不安と恐怖におののかせました。

 

こうした社会不安の中で登場してきたのが

いわゆる鎌倉新仏教の旗手たち、

すなわち栄西、道元、法然、親鸞、日蓮でした。

 

戒の仏教史という観点から言えば、

そのなかでは法然がもっとも重要であると思います。

 

なぜなら、法然は往生の条件として称名念仏の一行のみを重視して、

いわゆる戒と呼ばれるものは一切問題にしなかったという意味において、

無戒の立場を公言した日本仏教史上、最初の人であったからです。

 

*鈴木大拙は、「法然は日本霊性史の転換期を画した人物であると言ってよい」と述べて法然を高く評価しています(『日本的霊性』)。

 

*無戒の立場を採る仏教に禅がありますが、禅は最初から「空」を前面に立てていますので、あらためて無戒を言い立てる必要はありません。この点に関しては、拙著『禅に親しむ』の第十六話を参考にしてみてください。そういうわけで、ここでは法然・親鸞の浄土教に焦点を当ててみます。

 

法然が無戒の立場を明らかにした背後には二つの深い信念がありました。

一つは私たちが智慧をみがいて、

自分の力だけで煩悩を断とうとすることはむずかしいという信念。

(従って、人間は戒を犯さざるを得ない存在であることの痛切な自覚。)

 

もう一つは愚痴の状態に還って「ただ」念仏をとなえれば、

阿弥陀仏の本願の力で必ず浄土に生まれるという信念。

その二つです。

親鸞教学では前者を「機の深心」、後者を「法の深心」と呼んでいます。

 

*阿弥陀仏の本願とは、迷える人たちを救うために法蔵(阿弥陀仏)によってたてられた四十八の誓願で、とりわけそのうちの十八願、「たとい私が仏になることができたとしても、十方に遍在している人びとが心から信じ願って、私の国に生まれたいと望むならば、十遍も念仏すべきである。もしも生まれることができないならば、さとりを得て仏になることを私はしないであろう」を最勝の願とします。

 

しかし、法然の立場はこの末法の世においては破戒もやむなし、

というのであって、できればやはり戒を護った方がよいというものでした。

 

実際、法然自身は女淫・飲酒・食肉をしりぞけ、

比叡山で授けられた大乗菩薩戒を受持し、

専修念仏の行者になっても自らもそれを重んじ、他にも勧めていました。

法然を宗祖にいただく浄土宗は現在もその点で変わりはありません。

 

法然のとった態度は大変尊いものなのですが、

他方から見ると、なおそこに自己をたのむところが

残されていたということになるでしょう。

つまり自力の残滓のようなものが付着していたということになります。

 

そのことは裏から言えば、

阿弥陀仏の本願への信がまだ十分に堅固になっていないということになります。

 

法然に見られたそのような微少の自慢、

このことに比例して弥陀への微少の不信、

そういった心の有り方をいっそう深めて、

自力の無効、他力への全幅の信頼へと徹底したのが、

法然の直弟子であった親鸞でした。

 

妻帯した親鸞がその生涯をかけて到達した絶対他力の境涯は、

『歎異抄』のなかに余すところなく吐露されていますので、

それを参照してみてください。

 

戒の問題を考えている小論では、

親鸞のつぎの言葉をとりあげて考えてみたいと思います。

「誠に知んぬ、悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、・・・恥ずべし傷むべし」

(『教行信証』信巻)。

 

そこには愛欲の世界に沈む親鸞の悲嘆が率直に表出されていますが、

しかし、これは普通の人の懺悔悔恨の言葉と同じではありません。

そのように恥ずべき凡夫であることの徹底した自覚が、

親鸞においては阿弥陀仏の救いに与かっていることと一つになっているからです。

つまり、その言葉は自分が救済されていることの歓喜の声でもあるのです。

 

私の「戒の仏教小史」はここから一挙に明治の時代に飛躍します。

と言うのも、戒の問題に関するかぎり、

明治初期まで特筆すべき大きな変化はなかったようですから。

 

明治5(1872)年、維新政府によって、

僧侶の肉食妻帯蓄髪について

「勝手たるべきこと」の布告がなされました。

 

それまでは浄土真宗を唯一の例外として、

僧侶が独身をたもち戒律をまもるその原則が、

ここで一挙にくつがえされたのでした。

そのことは日本の仏教界から戒が公的には消滅したことを意味します。

 

そのことによって今日、ほとんどの僧侶が家庭をもち肉食もして、

僧侶というひとつの職業によって家族を養っています。

そのかぎり僧と俗との間に区別をつけることが難しくなってきています。

 

しかし現状がそうであっても、

「僧としてのあるべきよう」、

僧としての矜持というものが、

自ずからあってしかるべきでしょう。

 

私はここに森本省念老師の「妻帯禅僧に御願申す」の言葉を思い出さざるをえません。

「妻帯するなら親鸞上人まで下って欲しい。妻君もたすかる法、五濁に喘ぐ人々と一緒に乗って行く法を親鸞の言葉を使わずに<君自らの言行でもって説かれんことを>」。

今この言葉は私にとって最後の公案になっています。

 

*参考書:

石田瑞麿『日本仏教史』(岩波書店、1984)。

塚本善隆『日本の名著5 法然』(中央公論社、1978)。

武内義範・石田慶和『親鸞 浄土仏教の思想 第9巻』(講談社、1991)。

中村生雄『肉食妻帯考』(青土社、2011)。

半頭大雅編『禅 森本省念の世界』(春秋社、1984)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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