鈴木正三の禅 禅と念仏(8)(令和4年3月16日)
蝋梅(長岡禅塾)
鈴木正三(しょうさん)(1579-1655)は三河の武士の子として生をうけ、
自らも徳川方として関ヶ原の合戦や大坂冬の陣、
夏の陣に参戦したこともありました。
42歳のとき、江戸で出家することになるのですが、
この間、曹洞宗の禅について知るところがありました。
以降、各地を行脚して名僧知識から仏法について学ぶかたわら、
勇猛の気概を発揮して猛烈に修行を重ねました。
正三は生前に幾つかの著作を残しています。
しかしその禅の境涯をうかがうには、
弟子の恵中が記した『驢鞍橋(ろあんきょう)』がよいでしょう。
それで以下、『驢鞍橋』を中心にして述べて行きます。
(1)その中でまず注意を引くのは、
正三が自らも念仏し、諸人にも念仏を勧めていることです。
「一瞬におこる妄念が、無限の時間の苦の原因であると、よく心して南無阿弥陀仏と唱えよ」(108)。
「強く眼をつけて南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、死ぬまでひた責めに責めて、念根を切断せねばならぬ」(121)。
*カッコ内の数字は、藤吉慈海『正三 日本禅語録14』の頁数です。本書には『驢鞍橋』の一部(邦訳付)しか載せていませんが、岩波文庫版には原文全部が収められています。
そして、そのように念仏を行じて行けば、
坐禅の心がまえもできてくるだろうと述べています(126)。
したがって、正三において念仏は坐禅と同様に、
禅定の心(定心)を養う修行の一種と考えられていたのです。
この点で正三の念仏は自力的念仏であったと言えます。
*念仏と言っても、禅者の考えている「唯心の浄土、己身の弥陀」を証せんとする自力的念仏、法然(浄土宗)のように死後の往生を期待する念仏、そして親鸞(浄土真宗)の報恩感謝の念仏があります。一口で言えば、親鸞に近づくほど自力的から他力的となります。ちなみに正三自身は五種の念仏を挙げています(212)。
*「正三の念仏禅」については藤吉慈海『鈴木正三の禅』(禅文化研究所、1984.)26-44頁、67頁以下を参照してください。
(2)つぎに『驢鞍橋』の中で私が注目しますのは、
二王(仁王)や不動尊に対坐するような
激しい坐禅(二王坐禅)を実践したにもかかわらず、
正三がそこに以下のような未徹在(未悟)の言葉を残していることです。
「若い頃から道に志し、胸中にもゆるような一大事の問題が起こり、八十歳まで修行してきたが、まだすっきりしない(隙は明ぬ也)」(189)。「一大事の問題が起こり)」とは、
正三が四歳の時に経験した同じ年の従弟の死を境に、彼の内に起こって来た人間生死の問題のことです。
そのように、正三は死ぬまで悟れずにいたことを告白しているのですが、
同時に、「しかし私はたしかに根本になる種は取ったぞ」(233)と、
悟りの基礎になるものはつかみ得たと述べていることは
注意しておいてもいいでしょう。
生涯未徹在のこの事を、
正三は、しかし自分だけに限った問題とは考えませんでした。
正三はこんなふうにも述べています。
「祖師といっても仏さまではない」(134)。「昔も実にすっきりと悟った人はお釈迦さま一人であろう。そのほかの祖師、ことにわが国の伝教・弘法両大師ともに、まだ仏の境界にははるかに遠い」(234)。「道元禅師などを、すっきり悟った人のように思っていられるであろうが、まだ仏境界ではありません」(235)。
そのように正三において「修行などというものは、そんなにたやすく熟するものではない」のであって(188)、「仏境界というのは格別のこと」(126)であったのでした。
だから、正三は私たち後世のものに
「悟れない」ということを遺言したのでした。
「私は末世に残すならば、しっかり修行して修行が熟しても、何ともならぬものだということを書きつけて残すべきだと思う」(123)。
しかし、なぜ正三は「悟れない」と判断したのでしょうか。
『驢鞍橋』の中で正三はしきりに自己の肉体のことを問題にしています。
たとえば、こんなふうに言っています。
「自分にも見性体験がないではなかった。六十一歳の八月二十八日の明方、きっぱりと生死の迷いを離れ、自己の本性を確証することができた。その時の気持は、何もない何もないとただ小躍りしていたいばかりであった。三十日くらい、このようにして過ぎたが、やがてそれは自分の心に生じた一情態にすぎなかったと思われてきた。そこでもう一度、根本から修行をやり直してみたところ、案の定、みな虚事で、今も正三という糞袋(肉体)を秘蔵していることが判った」(189)。
またつぎのような述懐も見いだされます。
「私ももとより何も持たぬ性であるが、まだ正三という腐れ者(肉体)は空ぜられぬのだ」(147)。
「心がどれほど変わっても、糞袋(肉体)を秘蔵しているという気持はなくならない」。(178)。
(3)このような正三の正直な言表に対して、
江戸時代の臨済宗の学僧無著道忠(1653-1745)などは
正三の禅を邪禅であると批判したようです
(藤吉慈海『禅浄双修の展開』春秋社、131頁、同『鈴木正三の禅』禅文化研究所、63頁)。
しかし果してそのように簡単に断定してもよいものかどうか、
このことに関してはさらなる検討を要するであろうと思います。
正三はこんな言葉を残しています。
「古歌に、『悟とは悟らで悟る悟也。悟る悟は夢の悟ぞ』と有、誠に悟る悟はあぶない事ぞ。我も悟らぬ悟がすきなり。法然などの念仏往生も悟らぬ悟也」。(174)
*「法然のいう念仏往生もそれは死後に約束されているのであるから、現在においては往生ということはないが、現生において安心決定しているということは悟らぬ悟にほかならない」(『鈴木正三の禅』72頁)。
*ついでに言えば、正三は法然だけは批判しなかったようです。
正三の境涯を了得しようと思えば、
この「悟らぬ悟り」をじっくりと味わってみる必要がありそうです。