仏教と生活 鈴木正三の仏法(令和4年3月23日)
ツバキ(長岡禅塾)
仏教なき生活は盲目であり、
生活なき仏教は空虚である。
仏教のない生活は迷いの生活です、それゆえに盲目です。
生活を離れた仏教はただの文字です、そのために空虚です。
仏教と生活とのこうした乖離を厭い、
それら両者の一致を説いたのが、
前回のこの日記に書いた鈴木正三でした。
正三はこんなふうに言っています。
「世間の法がそのまま仏法である(世法即仏法)。
もし世間の法をもって成仏するという道理を実践しなかったら、
一切の仏教の本旨を知らない人である」(281)。
*括弧内の数字は『正三 日本の禅語録14』からの引用頁数をあらわす。
以下も同様。
「世間の法」とは、世間で取り決められていること一般を言います。
日常生活の中でそのことを誠実に実行してゆくことが、
とりもなおさず仏道を歩んでいることにほかならないと言うのです。
このことは私が常々言っている「一所懸命」と同じことです。
*「一所懸命」という言葉は、もとは戦国武将たちが自分たちの所領地の獲得保全に命をかけたことを言うようです。
私たちの生活はこの世界(世間)を離れることができません。
しかもその世界の中で私たちがはたらく場所は時間とともに変化します。
大雑把に言えば、家庭から職場や学校その他へ、
そこからまた家庭へ、という具合です。
しかし実際はもっと区々としていて、
私たちの活動の場は時々刻々に変化します。
「一所懸命」というのは、
そのように刻々変化するそのつどの場所(一所)に、
自己の命を投げ入れてはたらくことだと言いたいのですが、
そうした無心の行為が実は仏行を行じていることになるのです。
しかし「一所懸命」になれない時はどうするか。
正三は農民の場合を例にして、
そのような時には念仏を称えながら従事せよ、と教えています。
「農業はとりもなおさず仏行ですから特別に仏行について心配りする必要はありません。
皆さんもそれぞれ、体は仏体であり、心は仏心であり、
皆さんの生業がとりもなおさず仏行です。(中略)
それで、一鍬一鍬に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えながら耕作したら、
必ず仏果に至ることができます」(128)。
*禅の修行者であれば、ここは「無、無、・・・」と称えてゆくことになるでしょう。
そのように「家職を以て仏道に入る」(242)こともできるのです。
なにも専門道場だけが仏道修行の場ではありません。
私たちにとって日常生活の「只今・当処」が道場にほかならないのです。
ですから、日々の生活を抜かりなく生きて行くことがとても大切になります。
*生活即仏法、仏道即世道の教えは法華経に諸法実相として説かれています。無心の人にとって、「生活をたすけるための仕事・事業はみな正しい仏法にしたがったものである(資生業等、皆順正法)」(『法華経』法師功徳品)。
*この日記の内容に関連して、拙著『禅に親しむ』第28話「世法を嫌うな」を合せて一読いただければ幸いです。