鉄舟居士と江戸開城(令和4年3月30日)
柳の芽吹き(長岡禅塾近辺)
3月20日(晴れのち曇り)、禅塾の林に鴬の初音を聞く。
さて、鈴木正三が関ヶ原の戦いに参戦した三河の武士であったことは前に書きました。
今回、取り上げるのは幕末の動乱期に旗本として活躍した山岡鉄舟です。
両人は、正三が江戸時代のはじめ、鉄舟はそのおわりに、
というように時代は異なりますが、江戸時代の禅に生きた武人であった点が共通しています。
『南洲翁遺訓』の中で西郷隆盛はつぎにように述べています。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様(かよう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞ」。
西郷のこの言葉はよく知られていると思いますが、
文中の「命も名も官位も金もいらぬ、仕末に困る人」とは
一体、誰のことを指して言っているのか、ということについては、
あまり詮索されていないように思います。
実はそれは暗に山岡鉄舟のこと言っているようです。
山岡鉄舟(1836-1888)とは、
幕末から明治にかけて日本の激動期に活躍した
禅の大家であり、剣道と書道の名人でもあった人です。
この山岡は江戸無血開城に大変重要な働きをしました。
江戸開城といえば普通、西郷隆盛と勝海舟の名前が上げられます。
日本史年表をのぞいて見ても、
その項目の個所には大抵その二人の名だけしか見つかりません。
だから江戸開城は二人の功績に帰され、
山岡は忘れ去られているのが現状でしょう。
江戸城の無血開城は、
明治元年3月13日、14日の二日間にわたり、
江戸芝高輪の薩摩屋敷で行われた、
西郷隆盛と勝海舟との会見によって正式に決まりました。
しかしながら、その会見の前(3月8日)に、
山岡鉄舟がその時すでに駿府にまで進軍していた官軍の大将西郷に面談し、
徳川慶喜の朝廷側への恭順謹慎の意を伝えて、
江戸無血開城の約束を取り付けていたのでした。
*事ここに至るまでの経緯については、ここでは詳述できませんので、
下記の本を参照してください。
〇大森曹玄『山岡鉄舟』春秋社、1968.
〇牛山栄治『山岡鉄舟の一生』春風館、1967.
なお、勝海舟の語録『氷川清話』にも山岡鉄舟の人となりや江戸無血開城の経緯が簡単に触れられています。
上述のようなわけですから、
江戸開城は確かに西郷・勝会談によって決定されたのですが、
そのいちばん困難な予備的交渉は山岡が担いました。
この点で山岡の果たした役割と功績は正当に評価されるべきでしょう。
さて、「命も名も官位も金もいらぬ、困った人」が山岡鉄舟のことを
暗に述べたものだという話ですが、
それは西郷が山岡に会ったときのことを勝海舟にもらした
次のような言葉を根拠にしています。
西郷:「流石に徳川公だけあって、エライ宝をおもちだ」「いや山岡さんのことです」「イヤあの人は、どうの、こうのと、言葉で尽くせぬが、何分にも腑の脱けた人でござる」。
勝:「どんな風に腑が脱けているか」。
西郷:「いや生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、ただし、あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」(大森、上掲書、53頁)。
歴史家の磯田道史さんが
「山岡鉄舟は武士道の見本のような男」と書いているのを、
かつて新聞で読んだことがあります。
*鉄舟の武士道については別に、勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』(角川書店、1999.)があります。
旗本武士でもあった鉄舟をそのようにみることは、
確かに間違いではないとおもいますが、
しかしその根底に禅があったということは、
やはり見逃すことはできないと考えます。
最後に鉄舟居士に印可を授与した天龍寺の滴水和尚の、
居士追悼の偈頌を掲げておきます。
撃剣揮毫絶正偏(撃剣揮毫 正偏を絶す)
忠肝義膽気衝天(忠肝義膽 天を衝く)*維新に尽くした鉄舟の志に触れています。
噫乎五十三年夢(噫乎 五十三年の夢)
馥郁清香火裏蓮(馥郁たる清香 火裏の蓮)