無為ということについて(令和4年4月6日)
長岡禅塾近辺の桜
近々ある集まりで、禅塾の創建者である岩井勝次郎について
話をすることになっています。
そこで翁の法名、最勝院大徹無為居士に因んで、
無為ということについて書いておきたいと思います。
普段、無為という言葉は、
「無為に過ごす」といったように使います。
その場合、無為は「何もしない、怠ける」とほぼ同義で、
あまり良い意味ではありません。
しかし無為が禅的な意味に使われるときには、
「何もしない」ということは文字通り「何もしない」のではなく、
していることをまったく「意識していない」という意味で「無為」と言います。
別の言い方をすれば、
無為は無心の行いのこと言います。
ひとつ例を挙げましょう。
千利休は「茶の湯とはただ湯をわかし、茶をたてて、飲むばかりなる事としるべし」
と言ったといわれています。
茶の湯とは、ただ湯をわかし、ただ茶をたて、ただ飲むだけだというわけです。
湯をわかすときはただ湯をわかすだけ。
茶をたてるときはただ茶をたてるだけ。
茶を飲むときはただ茶をのむだけ。
それ以外の事は一切わすれてそのことと一つになる。
無為というのはそういう行いをいうのです。
禅の世界では、無為のことを
別に「無作の作(むさのさ)」といったりもします。
はたらいていることを忘れて(無作)はたらく(作)。
これが本当に作(はたら)くことです。
また、「終日行じて未だかつて行じず」と言ったりもします。
これは、一日中、一所懸命にはたらいたのだけれども、
すっかりそのことをわすれていた、というのですが、
それは自分が仕事とひとつになり自分を忘れていたからです。
禅の生命は何事も一所懸命に為すこと(無為)にあります。
ですから、禅の修行はそこに焦点を合わせています。
坐禅のほかに作務(肉体労働)が重視されるのもそのためです。
禅の修行と言えば、坐禅がすぐ思いうかびますが、
坐禅は禅修行の半分にすぎません。
「一日作さざれば一日食らわず」と言われますように、
坐禅(静)と作務(動)の両輪、しかし作務の方に重点をおいたしかたで
禅の修行はすすみます。
それもひとえに禅が無為の生活を目ざしているからです。