黙雷禅師の“南無阿弥陀仏” 禅と念仏(9)(令和4年4月13日)
枝垂桜(長岡禅塾近辺)
長岡禅塾に竹田黙雷禅師の墨蹟が所蔵されています。
そこには禅師の達磨の画に、
「直指人心見性成仏 何を以て証となす 南無阿弥陀仏」
と賛がされています。(下の写真)
黙雷禅師墨蹟(長岡禅塾所蔵)
*竹田黙雷(1854-1930):明治から昭和の初頭を代表する臨済禅の禅僧。梅林寺の猷禅(ゆうぜん)玄達の法を嗣ぐ。明治25年、39歳で建仁寺派管長に就任。左辺亭と号す。
黙雷禅師の墨蹟(文字部分)
森本省念老師はこの賛を評して、
「禅が念仏と動いたぞ!」と言われました。
(『禅 森本省念の世界』30頁)。
黙雷禅師の「南無阿弥陀仏」の賛には訳がありそうです。
禅師は久留米の梅林僧堂で修行されましたが、
そのときの師匠・三生軒猷禅禅師が死の間際に
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏して逝かれたというのです。
黙雷禅師の「南無阿弥陀仏」は
その影響をうけているのではないかと疑われています。
三生軒が遷化のおりに念仏をとなえたということについては、
そのことを打ち消そうとするお弟子筋もあるようですが、
森本老師は三生軒のあの念仏をそのまま生かしたいと考えておられます。
そして、黙雷禅師の「南無阿弥陀仏」もそのまま受け取っていきたいとされます。
「黙雷さんの宗旨はもともとそういう宗旨や。
うわべはふんにゃりふんにゃりして
中は剛(こわ)いんですわ。
卓州でっせ。仲々喰えん坊主や。大物やとわしは思う」。
森本老師は黙雷禅師をこのように見ておられます。(同上、53~55頁)
*卓州:卓州派。卓州胡僊(1760-1833)にはじまる法系。隠山派に比して、室内の調べが綿密なことで知られる。
さて、黙雷禅師のあの「南無阿弥陀仏」はどう解すべきでしょうか。
まず、「見性成仏直指人心 以何為証」ですが、
「見性成仏直指人心」は簡単に言えば、「自己の無なることを悟る」ことですから、
全体の意味は「何を以て悟りの証拠とするか」ということになります。
これに対して、黙雷禅師は「南無阿弥陀仏」を置かれたのです。
この場合、「南無阿弥陀仏」は単なる書き文字ではありません。
禅師と「南無阿弥陀仏」が一つになった「南無阿弥陀仏」なのです。
一遍上人の「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」の
「南無阿弥陀仏」と同じ称名です。(大雲日記144を参照)
参考までに、『趙州録』から次の問答を挙げておきます。
問う、「諸仏もまた師有りや」。
師云く、「有り」。
云く、「如何なるか是れ諸仏の師」。
師云く、「阿弥陀仏、阿弥陀仏」。
秋月龍珉は、この「阿弥陀仏、阿弥陀仏」に注して、
「この一声のもと、趙州は諸仏の師を現前させてみせた」
と注釈しています。(『禅の語録11 趙州録』筑摩書房、1982.)
*森本老師の蔵書になる、水島重治 校訂『俳聖 蕪村全集』(大正10年4月8日発行、聚
英閣)の函裏に、「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北 南無阿弥陀仏」と墨書されている。大正10年は老師が32歳、浄土宗の寺に居候中である。