愚禿(令和4年5月4日)

 

つつじ(長岡禅塾)

 

「人間には智者もあり、

愚者もあり、

徳者もあり、

不徳者もある。

 

しかしいかに大なるとも

人間の智は人間の智であり、

人間の徳は人間の徳である。

 

三角形の辺はいかに長くとも

総べての角の和が二角形に等しいというには

何の変りもなかろう。

 

ただ翻身一回、

此の智、此の徳を捨てた所に、

新たな智を得、新な徳を具え、

新たな生命に入ることができるのである。

 

これが宗教の神髄である。」

 

西田幾多郎「愚禿親鸞」の一節である。

この一節は法然の「一枚起請文」を私に想い起こさせる。

 

「念仏を信ぜむ人は、

たとひ一代の法をよくよく学すとも、

 

一文不知の愚鈍の身になして、

尼入道の無知のともがらにおなじくして、

 

知者のふるまひをせずして、

ただ一向に念仏すべし。」

 

親鸞が自らの名に冠した「愚禿」の言葉は、

「一枚起請文」中の「一文不知」や「無知」と共振している。

 

そして、それらはさらに白隠の「思慮分別を交えない」ことの謂いでもある。

(大雲好日日記172「隻手の声」を参照)。

 

いずれにしても、「知者のふるまい」をしている以上、

宗教の神髄に達することは駱駝が針の穴を通るよりも難しい。

 

*『禅に親しむ』第43話(禅文化研究所 北野大雲著)も参照。

 

 

 

 

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