看話と念仏 鈴木大拙 禅と念仏(10)(令和4年5月11日)
シャクヤク(長岡禅塾)
「禅と念仏」というテーマで日本の禅者が書いたものに、
古いものとして白隠の『遠羅手釜』をあげることができます。
そして近年になってからその問題にいちばん熱心に取り組んだのは、
なんと言っても鈴木大拙だと思います。
大拙には「禅と念仏」の問題を論じた代表的な著作として、
①『禅と念仏の心理学的基礎』新版(大東出版社)
②『浄土系思想論』新装版(1991、法蔵館)があります。
しかし、ここでは大拙の見た、看話と念仏との根本的な類似性について
確認しておけば十分ですので、この問題を簡潔に述べた論文「看話と念佛」を
読み進めることにします。
*上掲論文は『鈴木大拙全集』第18巻に収められています。
最初に用語の説明をしておきましょう。
「看話」とは「話を看る」つまり仏祖の言行録(話頭)を
参禅者が参究する(看る)ことです。
これは「公案」とも呼ばれています。
「念仏」とは「仏を念じる」ということですが、
「念じる」は当初、仏陀の相好または妙徳を心に思う(憶念する)ことでした。
これがやがて口で称える(口称)の意に変化して口称念仏の意になります。
浄土宗や真宗で念仏といえば「南無阿弥陀仏」と口で称えること(称名念仏)を言います。
まず、看話と念仏に関する大拙の結論を先に見ておきます。
大拙によると、看話の心理と念仏の心理とは、
作用の面から見ると同じになります。
看話禅(臨済禅)では看話(公案)三昧を通して、
他方、念仏宗(とくに浄土宗)においては念仏三昧になることによって、
普通の意識(対象的意識)を破った別次元の心の世界が開けます。
その場合、前者では「趙州無字」「隻手音声」などの公案が、
後者では「南無阿弥陀仏」の名号が三昧になるための仲介者になります。
そして、いずれの場合も意識を常に公案あるいは名号に集中させる必要があります。
禅ですと、「無、無、無、・・・」、あるいは「隻手、隻手・・・」というように、
念仏ですと、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と、
片時も公案あるいは念仏を手放さないようにしなければなりません。
こうして、心を三昧(無心)の情態に導くのです。
宗教的世界というのは、そのようにして開かれた、通常の意識を打破した三昧の世界、
普通の意識を超えた別次元の世界のことであって、
その世界の有り方は宗教の種類により、
また同一宗教の場合にはそれぞれの宗旨の違いによって表象の仕方が異なってきます。
仏教の場合ですと、それは仏の世界となります。
同じ仏教でも禅の場合は知的に、悟りの世界と理解されたり、
また念仏の場合には情的に、極楽の世界といったりします。
以上、大拙の言わんとするところを私なりに大雑把につかんで話しましたので、
ついついそのテキストから離れてしまいました。
ここでテキストから一カ所だけ選んで大拙の言葉を直接聞いてみることにしましょう。
「看話の心理と口称念仏の心理とは、心理学的に同一の意識情態と云い得る。
何れも思想上の連想を断絶し、二元性意識の根本条件を打破し、一瞬時なりとも、
そこに無意識または没我的情態または前後際断の情態を生ずる。(中略)
「この一瞬時に一種の内的知覚ともいうべきものが生ずる。この内的知覚を、浄土系の信者は、往生決定と解し、安心獲得または念仏三昧の時節と定める。禅家の修行者は、これを以て見性の情態と解する。その解するところは各系統の教理によるが、心理学的方面からは同一経験と見做し得るのである。」(上掲書、91~92頁)。
看話と念仏の同一性に関する大拙の所説の大要は、
おおよそ以上の通りですが、ここにひとつ問題がのこります。
と言うのは、浄土宗の場合には、上で見たような陀羅尼的、機械的な念仏が、
弥陀の浄土に往生する通路だと考えてよいのでしょうが、
真宗の場合はその事情が少し異なるように思えます。
浄土真宗では念仏でなく信心を浄土往生の第一の条件としているからです。
しかしだからと言って、
真宗で念仏が看過されているわけでは決してありません。
大拙は『末燈鈔』を引用して、
親鸞が信心を名号と不可分のものとしていたことに注意しています(上掲書、90頁)。
「弥陀の本願と申すは、名号を称へんものをば極楽へ迎へんと、誓はせたまひたるを、深く信じて、称ふるがめでたきことにて候なり。信心ありとも、名号を称へざらんは詮なく候。また一向名号を称ふとも、信心浅くば往生しがたく候。されば念仏往生と深く信じて、しかも名号を称へんずるは、疑ひなき報土の往生にてあるべく候なり。」
大拙はここでも念仏を陀羅尼的に考えているようですが(91頁)、
はたしてそれでよいのでしょうか。
私には真宗の念仏は字義通り「阿弥陀仏に帰命します」の意と見るのが
よいように思えるのですが、どうでしょうか。