実朝(その一)(令和4年6月8日)

 

人間失格(太宰治)

 

源実朝(頼朝の次男)のことが気になりだしたのは、

正岡子規を通してであった。

 

子規はその歌論の中で、実朝を「第一流の歌人」としつつ、

「人間として立派な見識のある人間ならでは、

実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候」などと述べて、

人麻呂、赤人、貫之、定家を超える評価を実朝に与えている。

(『歌よみに与ふる書』)

 

子規は実朝のことを

「人間として立派な見識のある人間」と述べているが、

子規は実朝のどこを見て、そのように評価したのだろうか。

 

そんなことで実朝のことをいろいろ調べていたら太宰治にぶつかった。

太宰に実朝物があることなど露も知らなかったので驚いた。

 

若いころ(大学生の頃か?)、流行り風邪にかかったような具合に、

太宰を二、三冊読んだ気もするのだが、はっきり覚えていない。

どうも太宰は当時の私には深く印象されなかったようだ。

 

それでも書庫を探してみると『人間失格』(新潮文庫)が一冊みつかった。

そこにレシートが挟んであって、それによると、

2000年4月5日、紀伊国屋書店梅田本店と印字されている。

 

太宰の『人間失格』を(多分)再び手にしたのは、

そのころ何か思うところがあったためだろうと思う。

そこに何カ所か付箋がしてあった。

それを二カ所ぬきだしておこう。

 

・「ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか」(90頁)。

・「世間。どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、<人間は決して人間に服従しない>」(95頁)。

*<>の個所は原文では傍点が付されている。

 

太宰は『右大臣實朝』を単なる思いつきで書いたのではないらしい。

「くるしい時には、かならず實朝を思ひ出す様子であった。いのちあらば、あの實朝を書いてみたいと思つてゐた」。「實朝を書きたいといふのは、たしかに私の少年の頃からの念願」であったようだ、と太宰は語っている。(「鐵面皮」)

 

太宰がなぜそれほど実朝にあこがれていたのか、

そのことははっきりとはわからないが、

彼がその小説で描いてみせた実朝像を通して

そのことがうっすら透けてみえるような気がする。

 

太宰はその小説で実朝に仕えていた女性に、

実朝について次のように語らせている。

 

・「あのお方の御環境から推測して、厭世だの自暴自棄だの或ひは深い諦念だのとしたり顔して囁いてゐたひともございましたが、私の眼には、あのお方はいつもゆつたりして居られて、のんきさうに見えました。大聲あげてお笑ひになる事もございました」。

 

・「御胸中はいつも初夏の靑空の如く爽やかに晴れ渡り、人を憎むとか怨むとか云ふ事はどんなものだか、全くご存じないやうな御様子で、右は右、左は左と、無理なくお裁きになり、なんのこだはる所もなく皆を愛しなされて、しかも深く執着するといふわけでもなく水の流れるやうにさらさらと自然に御擧止なさつて居られた」。

 

ひとことで言えば、「融通無碍」「お心に一點のわだかまりも無い」「よろづに、さらりとした」「和気藹々」といったふうで、まるで悟った禅僧のように実朝が描かれている。

それはたとえば『人間失格』の「私」のメランコリックな調子とはまったく異なっているように見える。

 

ではなぜ、太宰はあのような実朝像を描きえたのであろうか。

ここからはわたしの勝手な推測である。

ひとつ考えられるのは実朝の短歌の解釈を通してということである。

 

実朝の歌について、作中の語りて(太宰の代弁者)はつぎのように語っている。

「隠れた意味だの、あて附けだの、そんな下品な御工夫などは一つも無く、すべてただそのお言葉のとほり、それだけの事で、明々白々、それがまたこの世に得がたく尊い所以で、つまりは和歌の妙訣も、ただこの、姿の正しさ、といふ一事に盡きるのではなからうか」。

 

・ハルサメノ露ノヤドリヲ吹ク風ニコボレテ匂フヤマブキノ花

・箱根路ヲ我コエクレバ伊豆ノ海ヤ沖ノ小島ニ浪ノヨル見ユ

 

要するに実朝の歌の好さは万葉の大らかさにあるということだろう。

もしそうだとすれば、そのことはすでに真淵や子規が述べていたことであった。

私は太宰が真淵や子規に依ったとは言わないが、

太宰は「万葉の大らかな調子」を実朝の短歌に見いだし、

その歌の姿を実朝の心の姿へと反射させることによって、

あのような実朝像を塑像したのではないだろうか。

 

それからもうひとつ、

太宰にはもともと「大らかな」実朝を愛せずにはおれない

精神的土壌のようなものがあったように思われる。

 

文芸評論家の奥野健男によれば、

太宰の生まれ育った津軽には私たちの想像に反して

「生活からにじみ出た笑い、ユーモアがあり」

「意外に明るい開放性やハイカラ性もある」。

 

そして、「長い冬の夜、炉辺で語る津軽ごたくの身ぶり手ぶりで

相手に語りかける話体や笑い、ユーモアは太宰文学の大きな特徴になっている」

と述べている。

 

太宰は彼が津軽屈指の大地主の六男として

この世に生を受けたことに苦しみつづけ、

そのために心はつねに憂愁にみちていた。

そういう太宰にとって大らかで、ユーモアもある実朝は

自分の中にも確かに存在する「もうひとつの自分」であったのではないだろうか。

 

太宰が苦しい時にはいつも実朝を思いだし、

いつか実朝を書いていたいと思っていたのは、

そういう、ひょっとしたらそれが本当の自分かもしれない

「もうひとつの自分」に出合いたいためではなかったかのではないか、

そんなことを考えているのである。

 

*「右大臣實朝」は『太宰治全集6』類聚版(筑摩書房)所収に依った。

 

 

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