実朝(その二)(令和4年6月15日)

 

アジサイ(長岡禅塾近辺)

 

実朝に関して次に手にしたのは、

中野孝次の『実朝考』(講談社文芸文庫)である。

 

『清貧の思想』の著者として、

その名前を憶えていたことが、

中野の『実朝考』をわたしに選ばせた理由のひとつであった。

 

幸い『清貧の思想』はまだ書架に残っていたので、

さっそくそれを取り出してみた。

奥付を見てみると1997年9月16日、草思社の発行となっている。

 

『清貧の思想』(中野孝次著 草思社)

 

その本は一般の人たちにもよく読まれたと記憶するので、

以後、何回も重版されただろうと思われるが、

わたしの所持しているのはその初版本である。

 

すると、店頭に並んで間もないときに、

わたしはその本を買い求めたことになる。

それは「清貧」という言葉が

わたしを魅了したからに違いない。

 

その本には二カ所に付箋がつけられている。

ひとつ目は、「静夜 草庵の裏(うち) /

独り奏す 没絃琴(ぼつげんきん)」ではじまる良寛の漢詩に。

(『清貧の思想』第Ⅰ部-第六章)

 

もうひとつは、『徒然草』第三十八段、

「名利に使われて、閑かなる暇なく、一生苦しむるこそ、愚かなれ」に。

(『清貧の思想』第Ⅱ部-第十六章)

 

とくに銘記しておくべき事柄として付箋を付けておいたと思うのだが、

今となってはそのこともすっかり忘れてしまっていた。

 

中野孝次の『実朝考』を手に取った第二の理由は、

その本に「ホモ・レリギオーズス」という副題が付けられていたからである。

「ホモ・レリギオ-ズス」というのは「宗教人」という意味で、

著者はその語をドイツの小説家ノサック(Hans Erich Nossack,1901-1977)から

借用したようだ。

 

わたしは中野孝次をこれまで国文学系出身の人とばかり

思っていたのであるけれども、

実は大学でドイツ語を教えていたこともある

外国文学の研究者として出発した人であったのである。

 

それはさておき、中野は実朝を

ひとりの「ホモ・レリギオーズス」であったと考えた。

どういうことであろう。

 

ホモ・レリギオーズスとは中野によると、

「本当のおのれの帰すべき場を

非現実的な形而上学的ないし宗教的次元の場に求め、

そういう世界を実在として感じて生きた人」である。

 

実朝はもともと「ホモ・レリギオーズス」の素質をそなえた

人物であったと思われるけれどもが、中野によれば、

そうした実朝の素質を真正のものにしたのは和田の合戦であったようだ。

 

建暦三年(1213)、実朝二十二歳のとき、

御家人のひとりであった和田義盛が、

幕府(実際には北条義時であったか)に対して反乱をおこしたのである。

 

実朝は幕府側の人間として、

義時によって和田一族がつぎつぎに惨殺されてゆくのを

当然目撃したはずである。

 

『愚管抄』は「それはもう人間のしわざとは考えられない」残忍な戦いであったと述べ、

『吾妻鏡』には「凡そ固瀬河邊に梟(さら)する所の首二百三十四」と記されている。

*固瀬河は現在、神奈川県藤沢市の片瀬河。

 

中野の考えによれば、

かくして和田の戦は実朝が宗教的な世界に飛び込まずにはいられなかった、

そういう出来事であった。

その事件以後、実朝の最大の関心事は、祈ること、供養することに移行する。

 

そして、中野は実朝の和歌について、

実朝の和歌集「金塊集の一番個性的な歌はみな、

すでに嵐[和田合戦]の襲来が生存感情として感じとられていた、

このわずか一年くらいのときに成ったに違いない」と考えている。

 

そういう情況を写す歌として、次のような歌が拾われている。

・うば玉ややみの黒きに天雲の八重雲がくれ雁ぞなくなる

・大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも

以上は合戦前。

 

以下は合戦後。

・ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄行方もなしといふもはかなし

(「罪業を思う歌」の詞書あり)

・かくてのみありてはかなき世の中を憂しとや云はむ哀とや云はむ

・現とも夢ともしらぬ世にしあれば有りとて有りとたのむべき身か

(上の連作二首に「無常を」の詞書あり)

などである。

 

中野は大正14(1925)年の生まれで、

20歳のときに学徒動員され、人間の死という一大事と対峙せざるをえなかった、

そのことが原体験となって『実朝考』が書かれた。

中野はそのあたりのことを次のように綴っている。

 

「1970年、一夏をわたしは山小屋に籠って、自分の遺書でも書く意気ごみでこれを書いた。研究が主ではなく、実朝をとりあげて自分の思いを語るのが目的だったから、自分の戦争体験を表に出し、その自分から見た実朝を語るという方法をとった」(著者から読者へ)。

 

中野の『和田合戦』における実朝の心情描写には、

わたしは異常な熱を感じたのであるが、

それは中野自身の実体験がそこに投影されていたからに違いない。

 

 

 

 

 

 

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