実朝(その四)(令和4年6月29日)
アジサイ(長岡禅塾)
「鎌倉は恐ろしいところですね!」
これは頼朝のことが話し合われた歴史家たちのある集まりで、
ひとりの研究者が冗談混じりでもらした言葉である。
鎌倉時代の歴史を繙いて見ると、
そのことが実際よく判るのである。
実朝の場合もその例にもれることはない。
承久元(1219)年正月27日の夕暮れどき、
右大臣に任ぜられた実朝の祝賀の儀が鶴岡八幡宮で執り行われた。
その帰途に実朝は甥の公暁(頼家の次男)によって殺害された。
公暁はそのとき、「親の仇をうってやる」といって、
倒れた実朝の首を打ち落とした。
しかもそのあとすぐに、北条義時の命によって公暁もまた
首をはねられてしまうのである。(『愚管抄』『吾妻鏡』)
敵と味方に分かれての人間どうしの戦いはどの時代にもみられることだが、
父母兄弟といった血のもっとも濃厚な人間の間で、
あの時ほど殺し合いと斬首が繰り返されたことは、
そう頻繁にあることではないだろう。
折しもいまテレビで「鎌倉殿と十三人」が放映されているが、
そこで戦場の場面もあるけれども実際はあんなものではない。
テレビからは死臭は臭ってこない。
そのことと関連してもうひとつ付けくわえておけば、
武士階級の間での戦いのために
自然の災害も加わって一般庶民は疲弊した。
「鎌倉殿と十三人」の背後にそういう人々の生活があった。
鎌倉時代に新仏教がつぎつぎに興ったことはそのためである。
「鎌倉殿」の裏面に鎌倉新仏教の興隆があったことを忘れるべきではない。
話しは飛ぶようであるが、
西田幾多郎は昭和3(1928)年に停年で京都大学を去り、
その年から冬を(のちに夏も)鎌倉で暮らすようになった。
鎌倉に移ってからもいつもと変わらず午前中は思索に時間をついやし、
午後は折りを見て鎌倉周辺の山々を散策して歩いた。
その時のことが長い詞書とともに短歌の形に射止められている。
(「鎌倉雑詠」、『続思索と体験 続思索と体験以後』岩波文庫)。
まず詞書(昭和三年十二月~同四年三月 在鎌倉)からみておこう。
京都大学の教授として二十年近く京都で過ごした西田にとって、
京都は旧跡にとみ自然の美しい都であったが、
古都というにはあまりにも都らしく、
山川の美しさもまた優雅に過ぎて空想の余地をあたえなかった。
それに対して鎌倉には廃墟らしいところが多く残っていて、
骨肉相疑い、同族相戮した、猫の額ほどの狭い土地に
人間の罪悪の歴史が集められている感じがして、
入り組んだ鎌倉山の谷々はそういった人の心を具象化しているように
西田には思われた。
そしてつぎのように付けくわえている。
「それだけまた深刻に人世の悲哀をかんずることも多く、
我々の宗教心を動かし易い」、と。
・武士(もののふ)の 血汐に染みし 鎌倉の 山のくまぐま 落葉ふみ行く
・そゞろ行き 程遠からぬ 途(みち)の辺に 仇(あだ)と味方の おくつき処
・亡ぼしヽ 人も亡びて 谷々に 残る歴史の 物哀れなる
・落葉しく 此古墓を ありし日に とはの住家と 思ひきや君(詞書「頼朝の墓」)
・北条も 和田も三浦も 比企もなし 鎌倉山の 夕月の影
・鎌倉は 町にしあれど 鳥の音も 深山さびたる 松のむら立
『父 西田幾多郎の歌』
西田幾多郎の歌は現在、『西田幾多郎随筆集』(岩波文庫)で見ることができる。
写真の『父 西田幾多郎の歌』(明善書房、昭和23年)は、
幾多郎の三女静子が編集し出版されたものである。
序文は鈴木大拙が書いている。
静子のあとがきによると、
西田は万葉集をいつもよく読んで研究していた。
また澤瀉久孝、斎藤茂吉の著した万葉集は、
よく手元におかれていたという。
そして父幾多郎が、
非常に涙もろい人情に富んだ人でもあったことが述べられている。
娘と父との美しい魂の交流の様子がその後につづくのであるが、
そのことについては別の機会に譲ることにしよう。