朝比奈老師の佛心論 禅と念仏(13)

(令和4年7月13日)

 

テッセン(長岡禅塾)

 

朝比奈宗源老師(1891-1979)は、

大正・昭和の時代に活躍された禅僧で、

鎌倉の円覚寺に住して管長職もつとめられました。

 

この老師の書かれた本に『佛心』(大法輪閣)がありますが、

その新版の帯に「戦前からのロングセラー」とあって、

ひろく一般の人々に読み継がれてきたようです。

 

この本は私たちの「禅と念仏」というテーマにも

関係していますので、

今回はそこのところに焦点をあてて、

老師の『佛心』の内容を簡単に紹介してみたいと思います。

 

まず仏心ということですが、

老師は仏心を「悟りの境地」と説明されています。

 

仏教にはそういう境地を表わす言葉は他にもありますが、

一般大衆には、仏心という言葉が「いちばんわかりやすく、

親しみやすい」という理由で、その言葉を使っておられます。

 

もう少し仏心について見ておきましょう。

老師は以下のようにも言っておられます。

 

・仏心は人間をふくむすべてのものに具わっている。

 

・仏心はすべての生命の根本である。

 

・仏心は絶対的なもので、私たちは仏心のなかに生まれ、

仏心の中に生き、仏心の中に息を引きとる。

 

・阿弥陀如来、大日如来などは仏心を象徴したものにほかならない。

 

これらの諸点は「悟り」の内容を説明したものと受けとることができます。

そうしますと、仏心とは結局、大乗仏教の「空」あるいは「無」のことだと

理解することができるでしょう。

 

そのことはさておくとして、

老師の提言で重要なことは、むしろ以下のような事柄です。

 

①すべての人が悟りを開くことは至難の業である。

そうである以上、すべての人を救うことはできない。

 

②しかし他方で、「衆生無辺誓願度」といわれている。

このジレンマをどのように解決すればよいか。

(ここに何としても衆生を済度したいという老師の気持がでています)。

 

③それには信(浄土教)と覚(禅)に分離した現在の仏教の有り方をもとにもどし、

そこから信を根本として、仏心の信心ひろく大衆に説くようにする。

 

④さらに、信心の相続のために「ナムシャカムニブツ(南無釈迦牟尼仏)」を毎朝、

称えるようにする(七回以上、腹の底から)。

 

私たちの観点からしますと、③と④がとくに注目に値します。

 

まず③についてですが、

これまでも禅の立場から「信」の大切さが言われないではありませんでした。

しかし、その場合の「信」は自分を信ずる意味の信、

すなわち自信の意味が強かったように思います。

 

それに対して老師の場合には、

信はそれとはまったく違っていて、

仏心(覚者によって悟られた悟りの内容)に対する信心を意味しています。

この方向は他力宗に類似しているように思われます。

(たとえば、真宗では弥陀の誓願を信ずると言います)。

 

つぎに④の信心の相続についてです。

老師の場合、南無阿弥陀仏でなく南無釈迦牟尼仏になっている理由は、

「釈尊は仏心の覚者であり、仏心そのものである」からです。

そのことはここでは余り重要ではありません。

 

注目したいのは「南無釈迦牟尼仏」を「毎朝、七回以上、腹の底から」

称えることが勧められていることです。

その念仏は浄土系の仏教における

念仏のしかたに似ているように思えます。

 

そこに禅僧・朝比奈老師と浄土系仏教との間に

何か接点がありそうです。

 

この点について老師はつぎのように述懐されています。

「大正十一年秋、志摩国鳥羽で、

伊勢一身田の明覚寺の村田静照和上にお目にかかって、

はじめて真宗信心の神髄に触れ、全く禅と二致なきことをしりました。」

 

また『我が師 村田和上』という本の中には、

「村田和上に値(お)うて、私の禅が百八十度の転回をしたのです」

とあります。

それは老師が三十路をこえられたころのことでした。

 

そのあたりの様子をもう少し詳しく知りたいのですが、

残念ながらそのことはかないません。

 

それはそうとして、

とにかく老師は和上との出会いを通して

仏心の信心ということに確信を深めて行かれ、

それを衆生済度の方便として、また自身の禅修行のために

使っていかれたようです。

 

*桜井鎔俊、増補版『我が師 村田和上』(春秋社、1985.)

 

*村田和上については一般に余り知られていないと思いますが、

明治の時代に念仏一筋に生きた浄土真宗高田派の僧で、

鈴木大拙の『日本的霊性』の中にもその名前がでています。

 

*朝比奈宗源老師の工夫された「南無釈迦牟尼仏」のことで、

足利紫山老師がよく「準提観世音菩薩陀羅尼」や「延命十句観音経」を称え、

人にも勧めておられたことを思いだしました。

また何で読んだのか忘れましたが、ある人が般若心経を毎朝、十回となえた後に、

時間があれば心経の最後の「ギャアテー ギャアテー ハーラギャアテー・・・」の部分を

繰り返し称えていたら、ある日突然悟りが開けたというような話が書いてありました。

このような話はほかにもあります。

つまり三昧の行が悟りの道になるということです。

 

<コメント>(中村俊一さんより)

朝比奈老師のお話は大変興味深いです。

白川神道にも、大祓祝詞がありますが、奏上するとき、一音一音、宇宙の端まで届くように唱えます。言い換えれば、祓い清めになり切ります。自分と宇宙全体を祓い清めます。つまり、自他無く祓い清めます。禅の朝課をなり切って唱えるのと同じです。

それと鎮魂作法があります。正座をして、丹田の上に、右手を丸(太陽)にして、

それを左手で包み込むようにします。つまり左手は半月になります。そして自分は地球に見立てます。黒曜石の玉を目の高さに離して置きます。それを半眼で見ます。黒曜石の玉は宇宙の中心になります。

そして腹式呼吸をして、自分(地球)、右手(太陽)、左手(月)、黒曜石の玉(宇宙の中心)が一体となるように座ります。半眼にするのは坐禅と同じで、眠気と雑念が浮かぶのを防ぐためです。一体となるときは、4つが一体となるのではなく、

全部消えてしまうという感覚です。黒曜石の玉(空)に溶け込みます。

やり方は違えど、禅と同じように思います。

 

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