仏法は若き時にたしなめ
サルスベリ(長岡禅塾近辺)
仏法者まふされ候。
わかきとき仏法はたしなめと候。
としよれば行歩もかなはず、
ねむたくもあるなり。
たゞわかきとき、たしなめと候。
(蓮如上人御一代記聞書)
*仏法をたしなもうとするとき、そこに必ず行(ぎょう)が入ってくる。行は気力と体力を要する。易行宗といわれる浄土真宗においてもその事情はかわらない。聴聞は真宗におけるもっとも大切な行であるが、それには粘り強い根気と健脚が必要である。仏法は若い頃にたしなめと言われる所以である。
易行と言われる真宗の場合においてそのようであるのであるから、難行で知られる禅修行においておやである。
*一般的な傾向としてであるが、仏法をたしなみはじめる年齢を見ていると、老年に差し掛かってからの場合が圧倒的に多いようだ。その理由は簡単である。老いが近づくとともに、病院通いが増えて、いやでも自分の死のことを考えずにおれなくなるからである。
そこで、「幸い時間の余裕もできたことだし、ひとつ仏法でもたしなんでみるか」といった気持で、やおら聴聞や禅会に出かけ始める。しかし、残念ながらその頃には年齢的にそうした行を継続していくだけの気力、体力は残っていないのが普通である。
*禅ではそんなことを「可惜許(かしゃっこ)、遅八刻(ちはちこく)」という。「おしいことに、ちと遅すぎるわい」という意味である。しかし、他方で、何事もやってみなければ分からない、ということもある。