実朝(五)(令和4年9月14日)
斎藤茂吉の『源実朝』
久しぶりに実朝について書くことにします。
折しも今NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、
実朝が登場してきていますが、
そのことと直接関係はありません。
私は実朝をめぐってこんな経験をしたのです。
人間は見ているようでいて、
こちらに関心がなければ、
その実、それを見ていないという、そんな経験です。
それは斎藤茂吉の『源実朝』を見つけた時のことでした。
この本は私が時々見ている禅塾のある書棚に納まっていました。
けれども実朝に関心がなかった頃は、
その本に私はほとんど注意していなかったようです。
ところがある時ふと、
茂吉の実朝論があの書棚にあったはずだということを思いだしました。
ちょうど茂吉の実朝論を見てみたいと思っていた時でした。
それでさっそくその書棚に行って、その本に出会うことができました。
斎藤茂吉の『源実朝』はA5版800頁におよぶ大部なものです。
昭和19年に岩波書店から発行されています。
その本のカバー裏側の袖部分に、
森本孝治の名前と購入年月日(昭和19年11月25日)が墨書されています。
それでその本が森本老師の蔵書であったことが分かります。
昭和19年といいますと、森本老師の55歳の年にあたり、
ちょうど米軍による空襲が日本各地で激しくなってきた頃です。
そのため老師は翌年に御母堂を連れて岐阜県の伊深に疎開されています。
(長岡禅塾の塾長就任はそれから5年後のことです)。
今となっては何を思って実朝を買い求められたのか、
そのことを知る由もありませんが、
老師の関心の広さがこのことによっても分かります。
さて茂吉の『源実朝』について話をする順序ですが、
本書は歌人茂吉による実朝の歌についての専門的な論集といったようなもので、
素人の私などにはとても歯が立ちませんし、
また現在の私の関心もその方面にはありません。
そういうわけでここでは、
茂吉が歌の分析を通して見た実朝の人物像について
少し見ておきたいと思います。
歴史的人物の評価に関しては、
どの史料に依拠するかによって毀誉褒貶が分かれます。
実朝の場合もその例外ではありませんが、
茂吉は大体において実朝を同情的・好意的に評価しています。
実朝は十三歳で将軍になったために、
母の政子、叔父の義時が政務を司りました。
そのため実朝は政治の上に力をそそぐことができず、
別の方面、つまり和歌の方面にその本領を発揮しました。
そういうことで実朝を「大臣ノ大将ケガシタリ」(愚管抄)と
評することもできるかもしれませんが、
しかしそうしたことは実朝にとってやむを得ないことだったのだと、
茂吉は見ています。
実朝は十八歳の時に藤原定家から歌の教えを受け、
二十二歳時に定家から万葉集を贈られています。
そして、以来、実朝は万葉集を手本にして歌を作ろうとしました。
このことに関して茂吉はこんなことも言っています。
「実朝には、一面、我儘で、早熟で、豪華で、なかなか聴かない、
思いつめるところがあつたとおもふ。
実朝が一躍して万葉集の歌を手本とするやうになつたのなぞも、
さういふ気象に本づいてゐるとおもふ」。
一途で情熱的な実朝の性格を私たちはここに見ることができます。
茂吉はまたこうも言っています。
実朝は二十八歳の正月に公暁のために殺されて死んでいますから、
実朝が万葉集を読み、万葉歌人に私淑するようになったのは、
五年くらいの年月にすぎません。
にもかかわらず実朝が万葉調の立派な歌を残し得たということは、
その心境の俊英であったかを証拠だてることだと。
もう一点、そういう万葉調の秀歌に関して、
実朝の歌に本歌があるから、
独創の歌人ではないという批評があるようです。
しかし茂吉はこれについても反論しています。
「その場合、実朝がどのような歌を見つけて本歌としているか、
ここのところを調べてみなければならない。
実朝はそれまで有名な歌人の誰もが素通りしてきたような歌に眼をつけて、
(「実朝は優れた歌の句を見抜く眼力があつた」)
それを模倣している見識は実に驚くべきことなのである」。
「だから<実朝は第一流の独創歌人たるべき資格者だ>ということができる。
またそうした作歌の上から、実朝が決して凡庸な人物ではないのみでなく、
実に非凡なところのあることが分かるのである」。
茂吉はそのように述べています。
実朝は十四歳から歌を習いはじめ、長じて中央歌壇の定家を師匠としました。
そして定家から贈られた万葉集の歌道を歩みはじめ、
万葉調の優れた歌も幾つか残しましたが、若くして倒れてしまいました。
そういうわけで、
実朝は偉大な歌人としての初途にあったのであり、
よって残念ながら金槐集の歌もまだ万葉集の水準には及んでいない。
茂吉は残された実朝の歌をそう見立てています。
かつて子規が『歌よみに与ふる書』で実朝のことを
「あの人をして今十年活かして置いたなら、
どんな名歌を沢山残したかも知れ不申候」と残念がりましたが、
茂吉の思いもまったく同じであったと言えるでしょう。