寂ということ(令和4年9月21日)
噴水(禅塾近辺の池)
朝日朝刊の第一面に毎日掲載される
哲学者・鷲田清一さんの「折々のことば」に
毎回目を通している。
9月1日には民芸運動を主導した
柳宗悦の評論「寂の美」からの文章が出ていた。
ちょうど私はその評論を読んだところだったので、
余りの偶然にちょっと驚いた次第。
『美の法門』の著者である柳の考えによれば、
東洋美の特色は「寂」の相を離れない点にある。
そればかりか洋の東西を問わず、
真の美には寂の相がなければならない。
これが評論「寂の美」の論旨である。
それはそうかもしれないが、
私はむしろ私自身の関心から、
その評論の別の個所に付箋をつけていた。
それをここで紹介してみたい。
つぎのような文章である。
「仏教でいう寂とは執着を離れた相(すがた)のことである。
執着とは畢竟二元的なものへの執心を意味する。
有無に執し、自他に執し、東西に執し、憎愛に執する
心の煩いをいう。仏法の常の教えは、かかる執心を脱けて、
ものに囚われぬ自在を得よということにある。
これのみが心に平和を与える。」
柳も述べていることだが、
「寂」は普通には「淋しさ」とか「空しさ」といったような意味に
解されて敬遠されがちであるけれども、
そのように受けとるのは表層的な見方にすぎない。
仏教では「寂」は「静」と結びつけて「寂静」という、
また「涅槃寂静」ともいう。
「寂」も「静」も二元の対立葛藤を離れた心の
平和で落ち着いた境地を言うのである。
私たちは誰しもこのような「寂」を求めてやまない。
しかし実際にはなかなかそうした境地が手に入りにくい。
それは何故かと言えば、私たちの普段生活している世界が
善悪・愛憎・老若・自他・生死などという、
相対的対立的な世界であるからである。
もう少し詳しく言うと、
私たちはものを上のごとく二つに分けて、その一方に執着する。
そしてそこに葛藤・迷妄・苦悩が生れる。
「涅槃寂静」の境地を手に入れるには
そうした分別心・執着心を断ち切る必要がある。
これこそが禅生活の第一歩であるのである。
*私は「寂の美」を熊倉功夫編『柳宗悦 茶道論集』(岩波文庫)で読んだ。
*ちなみに鷲田さんは「寂の美」の文章から、「究竟なものを「無限」なものとか「絶対」のものとか「不二」なるものとかいうが、「無」も「絶」も「不」も凡て否定語である」という個所を引いて寸評を加えていた。
*「折々のことば」が9月17日で連載2500回を迎えるそうだ。これを記念する鷲田さんの文章が朝日(9月16日朝刊)に寄稿されていた。その中で「折々のことば」のために文章を抜き出す時には、「『あれっ?』とひっかかるところを大事にしている。一瞬意味のつかめないような表現や逆説、言外に含みやときに毒のあるもの。それがフックとなってつぎの思考が始まればいい」と考えて選んでいると。上の「寂の美」からの引用文などもまさにその格好の例の一つのように思われる。