曙覧の“たのしみは”(令和4年10月5日)
朝焼けにつつまれる長岡禅塾
橘曙覧(たちばな・あけみ、1812-1868)に
「たのしみは」で始まる52首の歌がある。
橘曙覧といっても、
今では歌の道に詳しい人でなければ、
ほとんど知る人はないのではないかと思う。
そういう私も実は、
正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読むまでは
その名前を知らなかったので、
余り偉そうなことは言えないのだが。
しかし曙覧のことは
中野孝次も『清貧の思想』で取り上げていて、
そういうこともあって曙覧は、
私にいっそう近しい存在になっていった。
曙覧のことでもっとも印象的なことを私は、
第十六代福井藩主、松平春嶽(1828-1890)が
書き留めた言葉の中に見いだす。
それは春嶽が曙覧の家を訪ねたときのことである。
春嶽が家来を連れて家の中に入ってみると、
「壁は落ちかかり、障子はやぶれ、畳はきれ、雨ももるばかりなれども、
机に千文八百ぶみ(多くの書物)うづたかくのせて」あった。
これを見た春嶽は、館に帰って次のように記している。
「おのれは富貴の身にして、大廈高堂(立派な御殿)に居て、何ひとつたらざることなけれど、むねに万巻のたくはへなく、心は寒く貧しくして、曙覧におとる事、更に言をまたねば、おのづからうしろめたくて顔あからむ心地せられぬ」(「橘曙覧の家にいたる詞」)。
さすがは幕末・維新の時期にその名を残した
春嶽だけのことはある気がするのであるが、
そこから曙覧の身辺には「清貧」という言葉だけでは収まらない、
高貴な人柄と良質な文化の香りが漂っていたことがうかがえる。
そういう曙覧の「たのしみは」で始まる歌の幾首かを拾っておきたい。
陋屋(ろうおく)での独居を楽しむ歌。
たのしみは 艸(くさ)のいほりの 筵(むしろ)敷き ひとりこころを 静めをるとき
貧しいながら家族団欒のひと時を楽しむ歌。
たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどい 頭(かしら)ならべて 物をくふ時
友との語らいを楽しむ歌。
たのしみは 心をおかぬ 友どちと 笑ひかたりて 腹をよるとき
たのしみは 客人(まれびと)えたる 折りもあれ 瓢(ひさご)に酒の ありあへる時
散歩を楽しむ歌。
たのしみは 空暖かに うち晴れし 春秋の日に 出でありく時
たのしみは 意(こころ)にかなふ 山水(やまみづ)の あたりしづかに 見てありくとき
花鳥を楽しむ歌。
たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時
たのしみは 庭にうゑたる 春秋の 花のさかりに あへる時時
たのしみは 常に見なれぬ 鳥の来て 軒遠からぬ 樹に鳴きしとき
書見する楽しみの歌(ちなみに私が最も共感する歌群)。
たのしみは 珍しき書(ふみ) 人にかり 始め一ひら ひろげたる時
たのしみは そぞろ読みゆく 書の中に 我とひとしき 人をみし時
たのしみは 世に解きがたく する書の 心をひとり さとり得し時
たのしみは 人も訪(と)ひこず 事もなく 心をいれて 書を見る時
以上の歌を通しても分かるように、
曙覧は実に禅で言うところの「日日是好日」の人であったのである。
*曙覧の歌に関しては『橘曙覧全歌集』(岩波文庫)を参照。