仏法には無我と仰せられ候

 

紫式部(長岡禅塾)

 

仏法には無我と仰られ候、

我と思ふことは、

いさヽか、あるまじきことなり。

 

我は悪しと思ふ人なし。

 

『蓮如上人御一代聞書』

 

 

*無我は仏教の根本の教えである。有ると思っている我とは、実はいろいろの要素がたまたま和合してできた仮のものにすぎない。だから「我有り」と思うことは「あるまじき」誤謬である。

 

ところが私たちは我の存在をかたく信じて疑わず、この偽造された我に執着する。そこに我をおごり高ぶる我慢や自慢の心が生じる。「我は悪いと思う人がない」のはそのためである。

 

上掲の『聞書』では、しかし無我は浄土真宗の立場で言われている。すなわち、自分は仏法をよく心得ていると考えて、他の人のいうことに耳を貸さなかったり、不明な点を問おうとしないという不遜な態度に見られるような我は本当は無いのだ、という意味で使われている。

 

関連する蓮如上人の言葉をもう一つ挙げておこう。「人のわろき事はよくよくみゆるなり。我身のわろき事はおぼえざる(気づかない)ものなり。(中略)ただ人のいふ事をよく信用す(耳を傾ける)べし。我わろき事はおぼえざる(気づかない)ものなり。」

 

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