臨済と睦州 日常禅(その四)(令和5年2月15日)
庭園の雪景色(長岡禅塾)
臨済が日常の何気ない行為こそが禅なのだと気づくに際して、
同じ道場の首座が果たした役割を見逃すことはできません。
『臨済録』ではなぜか首座の名前は伏せられていますが、
今やそれが睦州道明(生没年不詳)であったことが判明しています。
睦州は黄檗の道場でその法を嗣いでから故郷に帰って母を養いながら、
草履を編んでそれを門につるして人々に供養したので
「陳蒲鞋」と呼ばれて親しまれました(陳は睦州の名字)。
また睦州は高徳の和尚さんという意味で「陳尊宿」とも呼ばれて、
中国禅宗史にその名をとどめています。
私があえて『臨済録』の中の首座睦州に注目するのは、
睦州の行動に不可解な点が見られるからです。
睦州が臨済を指導したのはつぎの3点においてでした。
①黄檗への参問をすすめたこと。
②参問のしかたを教えたこと。
③黄檗を去った後、大愚のところで修行ができるよう計らったこと。
以上の3つのうち最も不可解なのは第二の点です。
臨済が首座の睦州に質問のしかたが分からないと言ってきたとき、
睦州はいとも簡単に、「如何是仏法的的大意」と尋ねたらよいのだと教えました。
そのような質問をしてきたものを黄檗が許すはずのないことくらい、
睦州のような力量のある禅僧なら先刻承知のはずです。
案の定、臨済は睦州に教えられた問を三度発して、
三度とも黄檗に打たれて追い返されたのでした。
さて睦州の意図はどこにあったのでしょうか。
私が思うに睦州の意図は第一の点から第三の点に至るまで、
終始一貫して臨済に禅の何であるか、禅は日常禅に極まると言うことを、
身を以って知らしめることにあったのではないか、
そういう意味で臨済の実際上の師匠は黄檗でも大愚でもなく、
睦州であったといえるのではないでしょうか。
そんなことを考えています。
臨済の黄檗三打の故事についてはこちら、