日常禅のすすめ 日常禅(その序)

(令和5年2月22日)

 

梅花(長岡禅塾近辺)

 

一般に坐禅が禅であると考えられがちですが、

坐禅はまだ禅ではありません。

 

坐禅は三昧(禅定、無心)の境地を深めるための

禅にとっては欠くことのできない手段ですが、

そのままではまだ禅とは言わないのです。

 

坐禅が禅になるには、坐禅によって得られた三昧の心が、

社会生活の場に出て活発にはたらきだすのでなければなりません。

 

禅とは三昧の<生活>のことを言うのです。

三昧の生活者を禅の人と呼ぶのであります。

 

しかしながら三昧の生活を貫徹することは容易なことではありません。

そこから三昧を修するための行、いわゆる禅修行が必要となります。

 

禅修行は古来、叢林と呼ばれる禅の専門道場で行われてきました。

そこではもっぱら三昧の心を修得するための厳しい行が課せられます。

しかしすべての人がそういう道場で修行ができるわけはありません

そこで一般の人をも対象にした坐禅会のような形の道場も開かれています。

 

いま上で三昧を修するための道場として二つの形態をあげました。

一つは修行僧(雲水)を対象とした専門道場、

もう一つは一般大衆=居士(こじ)を対象とした坐禅会形式の道場です。

 

ここで私はそういう道場とは違った別の道場の

存しうることを指摘したいと思います。

 

それは私たちの日常的生活の現場そのものを

三昧修得の道場とするもの、生活即道場としての道場です。

 

そのような場で実践される禅を日常禅といいます。

日常禅こそ実は本来の禅なのです。

 

日常禅の道場はその都度の生活の現場がそれになります。

私たちはそこにおいて三昧の生活を遂行するのでなくてはなりません。

その都度の現場に命を懸ける(一所懸命)しかたで臨むのでなくてはなりません。

 

それを監督し策励するのは自分自身なのです。

それには自分を厳しく律する態度が必要です。

 

そうであるのですが、

実際には往々にしてその警策が緩くなることは否めません。

そういう時には坐禅会や専門道場に出向いて厳しい空気に触れて、

自分自身に対する緩さ・甘さを反省し再出発すべきです。

 

日常禅の道場は易しく見えて

かえって難しいところがあります。

仏道において易行道といわれるものほど難行道であることが、

ここでもまた当てはまります。

 

しかし、ここで屈してはなりません。

千里の道も最初の一歩からはじまります。

さあ、その一歩を今からすぐにはじめてみましょう。

 

<お知らせ>

北野大雲老師による「大雲好日日記・法語掲示板」ですが、

老師休養のため、しばらく休載いたします。

 

 

 

 

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