大雅窟遺風(六)
<錯々>
森本老師は茶目っ気がおありで、私に半頭大雅などという名前をつけて面白がっておられた。
師のつけた名前であるから、やむを得ないが、それでも変な名前だと思っていたが、あるときアメリカの学生が、Half head Tigerですか、そういわれて、はじめて随分怖い恐ろしい名前だなと気づくようになった。(『長岡禅塾』)
大雅窟は浅井義宣の他に「半頭大雅」という名前をもっておられた。それが森本老師の命名によるものであったことが判明する。森本老師がその名前を思いつかれたのは、老師の出身が書物を扱う大阪商人だったから、「(禅塾の)番頭は大雅や」といっているうちに、「番頭」がなまって「半頭」になったという説、また大雅窟は頭が非常によかったので、森本老師が「左脳が右脳に比べてずば抜けているから半頭や」と言われたとする説などある。
しかし大雅窟のお名前が「浅井義宣」であろうと「半頭大雅」であろうと、大雅窟ご自身はそこにはいない。なぜなら名前というのは符号にすぎないのだから。私たち自身は本来無であるのだから、達磨大師が「あなたは誰か」と問われて、「不識(知らない)」と応えたのは至極もっともなことだったのである。
だから名前をもってその人自身だと見なすことは大間違い(錯々)だということになる。