生死(しょうじ)-その①(令和5年7月15日)

 

木槿(むくげ)(長岡禅塾近辺)

 

弘法大師空海は私たちの生死の問題に関連して、

次のような慨嘆の言葉を残されています。

 

 

生まれ生まれ 生まれ生まれて 生の始めに暗く

死に死に 死に死んで 死の終りに冥(くら)し

(「秘蔵法論」)

 

 

そこでは人間の生死の繰り返し(輪廻)が前提されていて、

現代人の多くはそのことを信じないでしょうが、

ここではそのことが問題なのではありません。

 

大切なのはそれほど生死が繰り返されたとしても、

人間は自己の生死の根源について深く思いを致さない、

そういう鈍感さに対する絶望が吐露されているのです。

 

それは決して古い昔の話ではありません。

現代の私たち自身のことでもあるのです。

 

私たちは自分の生の始めについて考えることをしませんから、

自己の生命(そして他己の生命)に畏敬の念を懐くことが少ない。

それで自己ならびに他の人の生命を軽く扱ってしまいがちです。

 

私たちは自分の生命の終りについて考えることをしませんから、

死の崇高なることに思いが到らず、

いたずらに死をもてあそぶか、さもなくば死を極度に恐れます。

 

どちらも生死に深く思いを致さない、

大間違いです。

それで禅寺では次の言葉を戒語として掲げています。

 

生死事大(しょうじ じだい)

無常迅速(むじょう じんそく)

時不待人(とき ひとをまたず)

慎勿放逸(つつしんで ほういつすることなかれ)

 

生死の問題はもっとも大切な問題である。

ひとの命はあっという間に終ってしまうものだ。

時はひとを待ってはくれないぞ。

だからどうぞ、好い加減な生き方をしないように。

 

明治時代の禅僧原担山は縁者の葬儀で導師をつとめた折りに、

参列者一同に向って大声で、

「お前らも死ぬぞ」と一喝しました。

 

重大な生死の問題が忘れられがちな現代、

担山の声は今も私たちの耳もとまで聞こえてくるようです。

 

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