生死(しょうじ)― その②(令和5年7月22日)
桔梗(長岡禅塾)
私はどこから生まれてきて、死んでどこに行くのか、
ということは人生の一大問題であるはずです。
しかし、その一大事も、
たいていは日々の生活に紛れて忘却されています。
残念ながらそれが実情です。
ところが死は生と隣り合わせになっていて、
生きているところに、
死はいつも影のごとく寄り添っています。
だから死は突然、襲ってくることがありますし、
そうでなくても生はやがて死を迎えることになります。
普通、ひとが死を意識するようになるのはそのような時です。
しかし死が必定である以上、
前もって自らの生死の問題についてよく考え、
覚悟を決めておくに越したことはないでしょう。
このことに関して私自身は、
道元禅師の『正法眼蔵』(生死の巻)に見られる
つぎの言葉に同感し、その言葉を強く信じています。
この生死はすなはち仏の御いのちなり。
(中略)
ただわが身をも心をもはなちわすれて、
仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなわれて、
これにしたがひもてゆくとき、
ちからをもいれず、こゝろをもつひやさずして、
生死をはなれ、仏となる。
道元はこのように、
私たちの生死の根本を仏としています。
(この仏は無のことです)。
これに対して、
法華経の行者であった宮沢賢治は
仏に代わって法(妙法)を立てて
自らの生死を領解しています。
次回はこのことについて書いてみたいと思います。