大雅窟遺風(九)
<担雪埋井>
仏教の修行というのは無駄骨を折るということですよ。一カ月英語早わかりというように、合理的にスーッといこうとみんな考えるんですが、これは駄目なんです。修行というのは無駄骨を折るということなんですよ。そこで初めて無駄でない世界が明らかになってくるわけですね。赤いということがわかるためには、赤くないところをいっぺん通ってこないといかんわけです。
(『悟りの構造』)
禅修行が無駄骨を折ることであるという意味は、私たちは本来仏であるからです。仏であるならば、わざわざ修行して仏になる必要はありません。
ところが実際を言えば、私たちは仏として生きることに努めないで、迷える衆生として日常を過ごしています。それは苦悩の生活です。そこでその窮状を脱却して本来の自己に帰するために、どうしても修行が必要になるのです。
その結果、仏の位にふれて安心が手に入れば、無駄に思えた修行が決して無駄でなかったばかりでなく、得難いものを手にしたということが自得できるのです。
「担雪埋井(雪を担って井を埋める)」とは無駄なことをすることです。「100分でわかる〇〇」とか「二時間半で読む〇〇」とか、何事につけ要領のよさだけが言われる現代、無駄骨を折ることは敬遠されがちですが、骨を折ってはじめた得られることの大なることを思い起こしたいものです。