生死(しょうじ)その六(令和5年9月16日) 

 

あおさぎ(長岡禅塾近辺)

 

禅門では「生れもしないし、死にもしない(不生不死)」

ということがよく言われます。

しかしこの言説は一般の人々には

なかなか受け入れてもらえないのではないかと思います。

 

なぜ受け入れてもらえないのかと言えば、

私たちは人の誕生と死去を現に目撃しているからです。

私たちもまた生まれて来て、死んで行くことは確実です。

これは事実です。

 

それでは人は「生れもしないし、死にもしない」という禅の主張と、

人は「生れ来て、死んで行く」という常識の主張と、

そのどちらが正しいのでしょうか。

この問題に関する禅話をひとつ紹介してみましょう。

 

あるとき、「悟った人でもやはり死ぬのでしょうか」と問われた僧が、

「いや、死ぬことはない」と答えたところ、

その罰として、野狐の身に堕ち、生まれ生まれ死に死んで、

五百回もの間、野狐の生活を繰り返すことになってしまいました。

 

そこで何とかその身を脱したいと考えて、

正しい答えをある高僧にたずねたところ、

その高僧は同じ質問に対して「死ぬ」と答えました。

その途端に僧は大悟して、野狐の身を脱することができたのでした。

(「百丈野狐」)

 

この禅話の教えんとするところは、

人間は本来「無」ですから、本来、「生れたり死んだりしない(無生死)」のですが、

現世では「生れたり死んだりする(有生死)」形で現象するということなのです。

 

そういうわけですから、有生死という主張と無生死という主張とは、

どちらが正しいかという二者択一の問題ではなく、

両方のことが同時に成立しているというのが本当なのです。

 

簡約に言えば、「有生死」即ち「無生死」ということになります。

あるいは、有即無、無即有と言ってもよいでしょう。

これが仏教の教える生死の実相なのです。

 

 

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