大雅窟遺風(十一)
<無為(一)>
孔子は言います。
「無為にして治まる者は、これ舜なるか」。
(舜帝は無為自然の境地で一所懸命治めていた)。
「己の身を恭しくして、ただ南面するばかり」。
(己を正して、ひたすら南面するばかり)。
(『論語』衛霊公)
(このように)
会社でいえば、社長は「無為自然」でなければなりません。
いや、社長だけでなく、役員や部課長、
さらには社員さえ、「無為自然」であれば、
仕事は捗(はかど)り、業績も上向くのではないでしょうか。
何事も、我を忘れるほど一所懸命やれば、
無為の境地が生まれ、新たな発想が生まれるかもしれません。
(『禅が教える「接心」のすすめ』)
彼岸花(長岡禅塾)
「無為にして治まる」とは、結局のところ、無心の生活を実践すれば、万事がうまく調(ととの)うということです。
「無為自然」は「造作することなく、そのままでいる」ことで、「三昧」「成り切る」「空」とほぼ同義になります。この言葉は荘子も使いますが、大雅窟によれば、荘子の場合はそれが「波を払って、水を求める」ような理想主義(有為から無為へ)であるのに対して、禅は「波これ水」と見る徹底した現実主義(有為即無為・煩悩即菩提)である点で異なっています。(『対話禅』)。
「南面する」は天子の有り様を象徴する言葉です。天子は陽の方に向って坐して政治を司りました。それで、「南面するばかり」とは、天子は「無為にして(一所懸命に)」天子の仕事をされたということ。
大雅窟の論語解釈は衛霊公篇に出ている「無為」を中心としたものだったと言えます。「本来の論語の主張は、「無為にして治まる者は、其れ舜なるか」ということです」と、述べられています。(『対話禅』)