大雅窟遺風(十二)

 

 

 

<無為(二)>

『論語』では、「無為にして治まる者は、其れ舜なるか」といわれていて、

その「無為」の用(はたら)きが礼であり孝弟(こうてい)なんですね。

お父さんが出かけるときは下駄を出してあげる、

ということに礼や孝がすでに含まれているわけです。

それを禅では、礼や孝という道徳的臭いのする立場より

「無為」の方に練り上げて、日常平凡な生活の中に活かしていく。

「いってらっしゃい」「いってきます」、といった具合ですね。

そこいらへんが、儒教は窮屈で禅は自由だ、などといわれるんでしょうが。

(『論語と禅』)

 

大雅窟は儒教・老荘・禅の関係について、「儒教と老荘という中国人の思想の二大潮流を仏教の空という洗濯粉が洗い直すと、禅・・・仮に禅という表現を用いるならば・・・というようなものが出てくるということですね」、とユニークに表現されています。

*「礼」は主に冠・婚・葬・祭その他の儀式の定め。「孝弟(悌)」の「孝」は父母によく仕えること、「弟(悌)」は「兄や年長者によく仕えること。

 

 

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