禅機(令和5年10月18日)
芙蓉(長岡禅塾近辺)
本日は浅井義宣老師と上田閑照先生という私の恩師どうしの問答を紹介します。
お二人の間で交わされた活き活きした言葉の交換を聞いていますと、
今は亡きお二人の廓然としたお声が聞こえてきそうな気がします。
上田:「老師、禅とはどういうものでしょうか」。
浅井:「天龍寺の管長さんだった関精拙老師が、真言宗のお寺に立ち寄られた時に、その真言宗のお坊さんが、「禅というものは、一体どんなものですか」って問われたんですね。すると、関精拙さんは、そばにあった香炉をパッと差し出した」。
上田:「なるほど」。
浅井:「真言の坊さんが「それだけですか」というと同時に、精拙さんが、パッと香炉をひっくり返した」。
上田:「灰がこぼれる」。
浅井:「真言の坊主、吃驚しよった、という話ですわ。香炉をグッと差し上げたところ。ひっくり返して灰が散らばったところ。ここに禅が機(はたら)いている」。
上田:「アッハッハー。はじめから、灰まみれにされてしまいましたね」。(『対話禅』)
*関精拙老師については、「大雲好日日記55」「同56」を参照。
*上掲の関精拙老師の禅機に類似した話が、中国の禅匠馬祖とその弟子百丈との間でもかわされている。
馬祖、百丈に問う、「汝、何の法を以てか人に示す」。
百丈、払子を竪起す(立てる)。
馬祖、「只だ這箇(それ)のみか、はた別に有りや」。
百丈、払子を抛下す(投げ捨てる)。(『馬祖の語録』)