大雅窟遺風(十七)
<安心立命>
禅の修行も最初は分別を殺して無分別へ、有為から無為へ、
という方向でずっとやっていくわけですが、
からだのあるうちは死にきれないんです。
ところが本当に「死にきれない」となったら、そこにパッと清風が吹く。
ですから、分別を殺して無分別へ、有為を否定して無為へ、
という方向でやっていくことはプロセスとしては大事なことで、
これがなかったら脱落ということもできないんですが、
ただそれだけだったら理想主義的な道徳となんにもかわらない。
それだけだったら、結局落ちつけないんですね。(『論語と禅』)
大雅窟は別のところで「捨てられないから捨てきった」ということを言っておられる(『悟りの構造』)。なぜ「捨てられない」かと言えば、それはわれわれが肉体を有しているからである。われわれが「死にきれない」のも同じ理屈である。
しかし、真に「死にきれない」という境に達するには、「死にきる」行をぎりぎりまで実践していなければならない。そうでなければ、つまり中途半端では、「パッと清風が吹く」こともないのである。「死にきる」行の徹底が弾けて、その弾けたときの気流が清風となって心中を吹きぬけるのである。