生死(しょうじ)その九(令和5年11月22日)
紅葉(長岡禅塾)
哲学者の西田幾多郎は自分の書斎に骨清窟という名をつけていた。
この名前は永源寺の開山である寂室元光禅師(1290-1367)の
つぎの漢詩に由来する。(読み下し文で示す)
風 飛泉を攪(か)いて 冷声を送る
前峰 月上って 竹窓明らかなり
老來 殊(こと)に覚ゆ 山中の好(よ)きことを
死して巌根に在らば 骨も也(ま)た清からん
永源寺の現管長堂前慈明老師の訳を拝借するとこうなる。
風が滝をかき乱して涼しい音を送ってくる、
前方の峰には月が上って窓は明るい。
年老いてことさら山中が好ましくなる、
この岩の根もとで死ねたならば、骨まで清かろう。
骨清窟の「骨清」が「骨も也た清からん(骨也清)」に
よっていることはもはや明らかであろう。
一般的に死を忌む日本人の考え方からすると、
死んだ人間の骨を清とする感覚は普通ではない。
では人骨を清とする感覚は一体どこから生まれてくるのであろうか。
それは人がもはや生とか死とかの問題に囚われることのない、
空の世界に超脱したときに生まれる感覚である。
このときにすべてが清くなる、風も月も、そして骨も。
西田が自分の書斎を骨清窟と呼んだのは、
この哲学者が生死を離れた境地に住んでいたからに他ならない。
そしてこのような境涯が禅の修練によっていたことも言をまたないだろう。
このことに関連して私には忘れられない西田の言葉がある。
それは西田が三女静子に送った手紙の一節である。
これを引用しておきたい。
死といふことは恐しいことはない
人間は誰もかれも皆死を免れることはできない
長く生きたとてさうよいこともない
死は月夜よりも美しい
*骨清窟は現在、石川県の西田幾多郎記念哲学館に移築されていている。
*三女静子に送った西田の手紙文は、西田静子編『父西田幾多郎の歌』(昭和23年、明善書房)からの引用である。