大雅窟遺風(二十三)

 

 

<夢>

『金剛経』の、転変してやまない、一切有為の法は、夢幻泡影の如し、

と説くこの夢も、また単なる儚いものでなく、

儚いが故に、

ますます確実で絶対的な真の実在としての夢でなくてはならないだろう。

つまり、裏から言えば、

これこそ絶対的で動かぬものというが如きものがあれば、

実は、それは真の実在ではなく、思惟や分別による妄念であり、妄想である。

真の実在とは、夢の如く儚くうつろい易いものである。

(『無相の風光』)

 

中国は宋の時代に大龍という和尚がいた。ある日、一人の僧が、「この現実は儚く移ろいやすいので、この身も死んで腐り果ててしまいますが、生死もない絶対的な身体(法身)とは、どんなものでしょうか」と質問した。すると和尚は、「山の花は開いて、錦のようだ。谷川の水は、深く満ちて藍色だ」と、現実の光景をもって答えました。つまり、開いた花もやがて散り、川の美しい水もやがて流れ去ってゆくように、移ろいやすい「人の世」、そして死んでゆく「肉体」こそが、真に確実で絶対的なものだ、と説いたのでした。(『禅が教える「接心」のすすめ』)

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