大雅窟遺風(二十五)
<好語>
好きな言葉というのはありません。
言葉というものはその人が使うので、
どんな悪い言葉でも「瓦礫を変じて黄金となす」というように
自由に使っていくことができるから、
そういう立場から言えば、全部好きな言葉なのです。
しかし、言葉というのは人間の自由を拘束するという
不自由な面を持っているのですね。
だから、好きな言葉というふうに、
なにか格言的にそういう言葉を取り出すということは、
やっぱり不自由なことになるのじゃありませんか。
(『対話禅』)
不立文字を旗印とする禅は、言われた言葉、書かれた文字に寄りかかることを良しとしない。そうすることが、自由な言語活動としての、その人の生きた生命のはたらきを奪うことになるからである。禅に生きる者は言葉に使われるのではなく、自由に言葉を使っていくのでなければならない。そうして自由を謳歌するのである。
その点から大雅窟は、座右の銘についても次のように答えておられる。
「私には座右の銘などというものはない。座右の銘そのものがわれわれの精神生活を支えているのではなく、こちらが坐禅をして根本に立ち返り、無心になれば[自由であれば]、どんなくだらない言葉であっても、それを黄金として使うことができる。こちらが無心にならなければ、どんな素晴らしい座右の銘も、ただのくだらない言葉にすぎない」と。 (1998年4月21日、京都新聞)
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