Y・N・ハラリの仏教的幸福論(令和6年8月24日)
木槿(むくげ)(長岡禅塾)
『サピエンス全史』の中で、ユヴァル・ノア・ハラリが
仏教に言及している箇所がある。それをここで紹介しておこう。
*『サピエンス全史』(河出文庫、下巻、313~316頁)
そこで問題になっているのは幸福についてである。
仏教は幸福についてどのように考えているか。
以下、ハラリの考えを要約しておく。
人は快の感情を幸福とし、不快の感情を苦痛と考える。
その結果、人は快を渇愛し、不快の苦痛を避けようとする。
ところが快の感情はそう長くつづくものではないので、
幸福であるために絶えず快を求めつづけなければない。
苦しみの本当の根源は束の間の快の感情を
そのように永遠に空しく求めつづけところにある。
追求には緊張がともなうし、混乱も生じる。
快の時ですら、快の消失を恐れ、この感情の持続と強化を渇愛するからである。
そこで仏教は、
感情は刻一刻と変化するもの(つまり無常なるもの)だから、
無常なるものを渇愛する(別言すれば、執着する)愚かさから
離れるように教える。その方法が瞑想(坐禅)である。
瞑想すれば、無常なる感情を追求することの無意味さが理解でき、
心の緊張が解け、澄み渡り、充足する。
そして今この瞬間を生きることができるようになる。
ハラリの結論はつぎの通りである。
「ブッダの見識のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、
真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。
事実、自分の感情に重きを置くほど、
私たちはそうした感情をいっそう強く渇愛するようになり、苦しみを増す。
ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、
内なる感情の追求もやめる(無心になる)ことだった。」
(臨済録に“心外に法なし、内もまた不可得なり”、
“求心やむところ即ち無事”とあり)。
*上で見たようなハラリの仏教理解については少し疑問がないわけではないが、
ここではハラリの考えをそのまま紹介するだけにとどめておきたい。
なお文中括弧内( )の言葉は私の補ったものである。