孝慈室語録-16
禅堂前提の紅葉(長岡禅塾)
禅と浄土教はひとつ
「応無所住而生其心(応に住する所無うして其の心を生ず)」
という金剛経のことばは、
(例えば)自己を忘じて拭き掃除をするということ、
即ち曽我量深さんのことばでは、
信仰に死ぬということだ。
信仰に死んで弥陀の願に生きるということだ。
すると念仏の上に金剛経が拝めると思う。
かくして曲解されて禅と対立する様に見られる浄土教というものは、
実は禅とひとつではないかと思う。
私は隻手の音声が判った頃にそう思うた。(『上』75頁)
(注)「曽我量深」は真宗の学者。
「信仰に死ぬ」とは自我を殺す(自己を忘ずる)ということ。
「弥陀の願」は阿弥陀仏の一切衆生を救わんとする誓願。
「六祖」は禅宗の六祖慧能。「隻手の音声」は公案の名前。