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北野大雲老師京大講義録(2)

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北野大雲老師京大講義録(2)

平成27年5月8日 京大講義録

 

禅と京都学派の哲学 ―― 禅とは何か

京都学派の哲学とは、言うまでもないことと思いますが、西田幾多郎および西田を中心にして集まった人たち(主として門下生)の哲学を総称する呼び名です。

したがって、その学派の哲学は学祖西田幾多郎の哲学の影響をつよく受けています。

西田の哲学は、これまた言うまでもありませんが、大乗仏教、とくに禅と深い関係にあります。

と言いますのも、西田哲学は主に、自らの禅体験を基礎にして構築されています。

ですから西田の影響下にあった京都学派の哲学も、何らかのしかたで禅(それから浄土教系思想)への関心に導かれています。

ここに、「禅と京都学派の哲学」がひとつのテーマになり得る理由があるわけです。

しかし、私は禅の実践家であって、もはや哲学の研究者ではありませんので、ここでは禅の方の話を中心にして行くことになります。

 

禅とは何か。

禅という言葉は、古代インド語であるパーリ語のジャーナ、サンスクリット語のドゥヤーナの音写「禅那」を略したもので、瞑想の意です。

その意味から、定、静慮、思惟修などと漢訳されます。

また、禅定とも言われます。

 

私は師匠(半頭大雅老師)から繰返し、この「禅定」という言葉を聞いてきました。

師匠はわれわれ修行者に「禅定に入る」ことを口を酸っぱくして言われました。

そして、禅修行においては「禅定に入ったものが勝ちだ」とさえも。

そういうわけですので、今日は「禅定」についての話から始めたいと思います。

 

一、禅定(禅の根本)

禅定(三昧とも言います)は確かに禅の、それどころか仏教の根本要因(基底)であると言ってよいと思います。

真の仏教生活とは、禅定の心(無心、清浄心)を基礎とする生活を言います。

ですから、禅定というこの要因が抜け落ちてしまいますと、仏教は似非仏教に堕ちてしまいます。

いま「禅定の心」と言いましたが、それは、私たちがいつもしているように、私と対象、主観と客観とが分れた心の有り方をしているのではなく、主観と客観とが一つとなった心の有り方(三昧)をいいます。

 

二、行の必要性

しかし、「禅定の心」、そしてこれに基づく生活を手に入れようとすれば、どうしても一定の修行が必要となります。

なぜかと言えば、われわれは余りにも強く主客に分れた心の有り方、別の言い方をすれば、物を対象化する見方(対象的意識)に縛られているからです。

実はこの対象的意識こそ、一切の倫理的・宗教的問題(罪悪や生死に関係する問題)の元凶なのです。

どういうことかと言いますと、われわれは解決困難な問題を前にしたときに悩んだり迷ったりして苦しみます。

問題を「前にする」というのは、つまり問題を自分の前に立てて対象化して見ているわけです。

このような心的構造のもとでは、たとえ解決が見いだされても、それは一時的・相対的・仮説的なものにすぎません。

いずれまた同種の問題がわれわれを襲うことになるでしょう。

問題の在所が対象的意識にあることは、すでに多くの人たちによって知られていました。

たとえば、ドストエフスキーは『地下生活者の手記』のなかで、「単に意識の過剰ばかりでなく、たとえどんなものであろうと意識というものは病気である」と言っていますし、夏目漱石も「self-consciousness とは世紀の病気である」と、自らの日記で述べています。

近現代人に多く見られる心の病は「意識という病」であることを現代の心理学は洞察しています。

禅者はつぎのように頌しています。

「学道の人、真を識らざるは、只だ従前より識神〔意識〕を認むるが為なり。

無量刧来生死の本、癡人喚んで本来の人と作す」(長沙景岑)。

また、西田は、宗教は対象的意識を越えたものですから、「対象論理の立場においては、宗教的事実を論ずることはできないのみならず、宗教的問題すらも出て来ない」

「災いするものは、抽象論理的論理〔対象意識的な考え方〕である」と断言しています(「場所的論理と宗教的世界観」)。

上で倫理的・宗教的問題の元凶が対象的意識にあることを見たわけですが、それでは真の問題解決方法をいずこに求めればよいのでしょうか。

問題が対象的意識(主観が客観と分れた心の有り方)から生じてきている以上、その対象的意識によって問題を完全に解決しようとすることは原理的に不可能です。

対象的意識の延長線上にはその問題解決の道はありません。

ですから、何としても対象的意識(主客の分れた心的構造)の底を打ち抜き、主客の分かれる前(主客未分)の心に立ち還る必要があります。

分れた心がある以上、分れる以前の心があるはずです。

われわれが生まれたちょうどそのとき、われわれの心は物を対象化することのない無垢な心であったのです。

(「禅定の心」とはそうした心のことなのです。だから「禅定の心」は清浄心とも言われます)。

それがやがてわれわれの成長とともに、客を主から離してみる見方へと心が常態化していったわけです。

それとともにわれわれの心は計らうことも覚え、ときに邪心・悪心をはたらかせるようになりました。

そこのところを聖書は、人類の祖先が禁断の知恵の木の実を食べたので罪が人類に入った、と神話的に語っていますし、仏教では、「おさな子の次第次第に知恵つきて、仏と遠くなるぞ悲しき」と歌われています。

 

三、戒・定・慧

前項で禅定を習得するために一定の行の必要なことを述べました。

このことを説明するのに、仏教で三学と言われてきた戒・定・慧の考えが有用だと思います。

私の考えでは、戒・定・慧(戒律・禅定・智慧)のこの並びはこの順序でなければなりません。

ここで「定(禅定)」の前に「戒(戒律)」がおかれていることに注意してください。

つまりこれは、禅定を修するためには戒律(規則、規矩)にしたがった一定の修行が必要だということを示しているように思います。

そして、(七)で見ますように、禅定から智慧が生まれます。

そこでは「戒から定へ」です。

ついでに言いますと、同じく仏教に「六波羅蜜」と呼ばれる、悟りに到る六つの道が考えられています。

それらは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つです。

この場合でも、最初の四つ、すなわち布施・持戒・忍辱・精進を一括りにして広義の戒の意に解すれば、やはり戒律・禅定・智慧となって、三学と同じ並び方になります。

したがって、戒→定→慧のこの順序は仏教では不動のものと考えられていたような気がします。

 

四、無心

禅定は主観と客観とが合一した心的状態でした。

われわれはここで西田幾多郎の『善の研究』を覗いてみることにしましょう。

西田がそこで純粋経験を説明して「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」と言っているは、まさに禅定に入った心的状態を言っているのです。

ですので、そこから次のようなことが分かってきます。

前半の「未だ主もなく客もない」の「ない」に注目すれば、禅定は何もない心的状態、すなわち「無(心)」、絶対の無、です。

けれども、後半の「知識とその対象とが合一している」と言われている箇所に注意すれば、禅定の(あるいは、禅でいう)「無」は、よく間違えられるように決して「空無」のことではなく、西田の言い方を借りれば、「事実其儘の現在意識」が現前している状態です。

そのかぎり絶対の有とも言ってよいわけです。

そうしますと、禅定の心は、絶対無であって同時に絶対有であるということになります。

(これは、般若心経の「色即是空、空即是色」が意味するところと同一です)。

 

五、禅定とメディテーション

禅定が心の絶対に無なる状態を意味するかぎり、それは心に「やすらぎ」「静けさ」をもたらします。

しかし、本来、禅はそういうものに止まるものではありません。

そのような禅は静観主義(quietism)、「禅定主義」(鈴木大拙)の死禅として批判されてきました。

禅はつぎに述べるように智慧(般若)を生命とする「般若主義」の立場に立っています。

最近、長岡禅塾にも多くの外国人から入塾の問い合わせがあります。

禅に関心のある人たちの中にはmeditation(瞑想)の経験者もいます。

しかし彼らのいうmeditationは大抵、心の安らぎを追求する種のものに止まっています。

ですので、最初に智慧を開発するための公案禅(臨済禅)に出会ったときには面食らってしまう場合が多く見られます。

実際を言うと、仏教でも最初のころは禅は禅定主義に止まっていました。

それが、禅が中国に入って六祖慧能(638-712)の時代になって般若主義に変わり始め、現在に伝わっています。

 

六、禅定の智慧

禅定の「無」は「ただ何もない」虚無、無能力の無ではありません。

それは「はたらく」無、能力をもった無です。

それで、久松真一はこれを「能動的無」と称しました(「能動的無」という呼称は、おそらくニーチェの「能動的ニヒリズム」に倣ったものと思います。なお、久松は「無」をわざわざ「東洋的無」と呼びました。これは「無」は元来普遍的なものですが、それがたまたま東洋で自覚されたという意味で「東洋的無」と呼んだのでした)。

それでは、「無」はどのように「はたらく」のでしょうか。

それは「智慧」となって「はたらく」。

前に述べた三学の図式で言えば、「禅定から智慧(般若)へ」ということになります。

(実際の禅修行では「公案」を使った参禅問答によって「智慧」を開発します)。

この「禅定の無から智慧のはたらきへ」の事態を、禅の世界では、「大死一番、絶後に再び蘇える」とか「懸崖に手を撒して、死中に活を得る」と表現しています。

「大死」とは、われわれが絶対の無になったところです。

「絶後再蘇」は、宗教学では「新生」とか「再生」とか言われていて、われわれの自己のまったく新たな有り方への転身を意味します。

この「智慧」についてもう少し見ておきましょう。

これは禅定の無から出た智慧ですから、対象的意識の産物である普通の知(これを分別知と言います)とは異なります。

すなわち分別以前の無から出る智(無分別の分別)ですので、無分別知ということになります。

一般に知(智)は分別し限定することですが、禅定の智慧は無のはたらきによる分別(限定)――西田はこれを「無の自覚的限定」と言います――である点で、普通の知恵と質的に相違しています。

いわゆる「悟り」とは、「目覚め」としての智慧のこと(無そのものを自覚すること)です。

また、一休さんでお馴染みの「頓智」は本来の意味では禅定の智慧のことで、智慧は直覚される性質のものですので「頓」の字が付されているのです。

「頓智」は禅定の智であるかぎり「屁理屈」とも違います。

禅定の智慧のはたらきを示す代表的な例を、禅のテキストから拾っておきましょう。

―― 趙州、因みに僧問う、「如何なるか是れ祖師西来意。」州云く、「庭前の柏樹子。」(『無門関』第三十七則)

禅の根本義を訊ねられた趙州はすぐさま眼前の庭の柏樹をもって答えたわけですが、その答えが「柏樹」と限定されているところに智慧のはたらきを見ることができます。

ついでに禅定から離れた知恵の例をつぎに挙げておきましょう。

―― 陸亘大夫、南泉と語話する次で、夫云く、「肇法師道く、天地同根、万物一体と。也た甚だ奇怪なり。」南泉、庭前の花を指さして、大夫を召して云く、「時人、此の一株の花を見ること、夢の如くに相い似たり。」(『碧巌録』四〇則)

大夫が南泉に提示した肇法師の「天地同根、万物一体」という表現は確かに素晴らしい(「奇怪」)に違いありませんが、口先だけでそう言っているかぎりは、現実の事態に成り切った禅定の智ではないわけですから、それは「夢の如くに相い似たり」ということになります。

西谷啓治は大夫のそうした見方を、「現実の事実から遊離した観想の立場」(「般若と理性」)と評しています。

 

七、禅定と慈悲

大乗仏教において智慧は慈悲と結びついています。

智慧はもともと慈悲とひとつのものです(智即悲、悲即智)。

それを分けて見るのは分別上のことで、その方が分りやすいからです。

智慧を表す文殊菩薩、慈悲を表す普賢菩薩を左右に分けて脇侍とする釈迦三尊像はそういう分別上の理解に基づいて制作されています。

ここでは智慧を慈悲の面から見てゆくことにしましょう。

仏教では慈悲を三種に分けます。

すなわち、衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲、三つです。

そして、順に小悲、中悲、大悲と等級づけられています。

衆生縁の慈悲とは、生死に迷う衆生を助けようとする慈悲です。

これが小悲とされるのは、この慈悲が衆生の有ること(実有の見)を前提にし、それに囚われているからだとされます。

法縁の慈悲とは、一切の事物が「幻化のごとし」と知って起こす慈悲です。

これが中悲とされるのは実有の見から離れている点で前者より優れていますが、まだ「幻のごとし」と見る観念に囚われているからです。

このように、以上の慈悲は有縁の慈悲である点で純粋の慈悲ではありません。

純粋の慈悲はあらゆる有相から離れた、無心から出た無縁の慈悲でなければならなりません。

そして、ちょうど、「写るとも月も思わじ、写すとも水も思わじ猿沢の池」と歌われている月と池との関係のように、無縁の慈悲においては、慈悲を施したということもなければ(「仏は慈悲して慈悲を知らず(無難禅師)」)、慈悲をほどこされたこともないという、さっぱりとした関係のものでなくてはなりません(以上、夢窓礎石『夢中問答』)。

禅の世界には、「無功徳」「無作の作」「空華万行」など、沒蹤跡を意味する言葉がたくさんあります。

ここで、とりわけ注意をしたいのは、衆生縁の慈悲についてです。

わたしたちの慈悲はほとんど大衆に向けられるものだからです。

慈悲の対象が大衆だから、その慈悲が小悲だとは必ずしも言えないと思います。

もし大衆に向けられた慈悲がそのゆえにすべて小悲だとすれば、たとえば、宮沢賢治が「雨ニモマケズ」の一節で、「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテ稲ノ束ヲ負ヒ・・・」と歌った場合などはどうなるのでしょうか。

結局、決め手はその慈悲が有心から出たものか、無心から出たものか、ということにあると思います。

無縁の慈悲の例を挙げてみましょう。

良寛さんが尋ねて行かれると、いつもどんなにいがみ合っていた家庭でも、いっぺんにその場が和んだ空気に包まれるようになったということを何かの本で読んだことがありますが、無縁の慈悲のよい例のひとつだと思います。

禅のテキスト中から一例を拾っておきましょう。

――「柴門独り掩うて、千聖も知らず。自己の風光を埋めて、前賢の途轍に負き。瓢を提げて市に入り杖を策いて家に還る、酒肆魚行、化して成仏せしむ。」(『十牛図』第一〇、入廛垂手)

これは真に悟った人の日常を描いています。

そういう人にはもはや悟ったということもありません。

「魯のごとく愚のごとし」と言いますが、悟り臭さの残っている間は、まだその悟りは完全ではありません。

テキストに描かれた御仁は、門を閉ざして人を近づけず、その境涯はだれも窺い知ることができないのですが、和光同塵し独立独歩しています。

それはどんな風か言えば、瓢を提げて市場に買い物に行き、杖をついて家に帰ってき、途中、酒屋や魚やを覗いては店のものと軽い会話を交わします。

ただそれだけのことであるが、そのようにして衆生を済度されている。

まことによい無縁の慈悲の見本だと思います。

 

八、智慧の行為的性格

最後に、智慧は行為的である点について述べておきます。

仏教では人間の行為を身口意の三つ(三業)に分けています。

すなわち、身体で行う行為、口で言う行為、心に思うという行為の三つです。

禅定の智慧はこれら三業のいずれかを主とし、それと一体となって日常生活の上に具体的にはたらきます。

西田哲学の術語「行為的直観」は智慧と行為とが一体化して作用するの謂いです。

西田哲学が「行為的直観」を言い得るのは、それが「禅定」(「絶対無」)を基礎とする哲学であるからです。

禅定を基礎としない哲学からは、他の西田哲学の術語と同様に、行為的直観という術語の出てきようがありません。

知恵と行為の一致ということで、われわれはすぐに王陽明の知行合一説を浮かべます。

西田もすでに『善の研究』(第三編、第一章、行為 上)でその説にふれ、つぎのように述べています。

「王陽明は知行合一を主張したように真実の知識は必ず意志の実行を伴わなければならぬ。自分はかく思惟するが、かく欲せぬというのは未だ真にしらないのである」。

このような考えが、やがて西田において行為的直観という術語に形成されていったのでしよう。

王陽明の場合、知行合一が当為として説かれているところがあるようであるが、そのかぎりそれは西田の行為的直観と同じではありません。

智慧の行為的表出の例。

―― 僧問う、如何なるか是れ仏法の大意。師〔臨済〕、払子を竪起す。僧便ち喝す。師便ち打つ。又、僧問う、如何なるか是れ仏法の大意。師、亦た払子を竪起す。僧便ち喝す。師も亦た喝す。僧擬議す。師便ち打つ。(『臨済録』上堂)

払子竪起(身業)と「喝」(口行)の小気味好い交換をそこに見ることができます。

 

九、結語

禅はただの静寂を意味する禅定(坐禅)と同じではない。

禅はそこから叡智的・慈愛的・躍動的にはたらき出します。

 

(2)題「禅と京都学派の哲学」

全般的な話について、『禅と京都哲学』(京都哲学撰書全三十巻の別巻、燈影社、二〇〇六年)参照。

片岡仁志先生について(西田の弟子、参禅者・印可授与、長野・京都で高等女子教育に尽力、京大教育学部教授)。

 

(3)「京都学派の哲学」について

西田幾多郎およびその門下生たちの哲学の総称である。

学祖たる西田の哲学について

森本老師、「先生の哲学は西洋哲学研究から出来たのか、禅体験から出来たのか」、「先生ははっきり云われました、両方からだ」と。

どのように両方からなのか。

禅体験でつかまれた真理を西洋哲学の概念を借りて説明しようとされた。

西田いわく、「背後に禅的なるものと云われるのは全くさうであります。・・・禅といふものは真に現実把握を生命とするものではないかとおもひます 私はこんなこと不可能であるが何とかして哲学と結合したい これが私の三十代からの念願で御座います」(昭和十八年二月十九日、西谷啓治宛て)。

そこで、どうしても「禅とは何ぞや」ということが問題になってくる。

 

(4)「禅とは何か」

絶対無(無的主体、無相の自己)による日常生活、(「屙尿送衣喫飯、困れ来れば臥す」、岡山曹源寺・儀山「如何是仏法大意、私しゃ備前の岡山育ち、米のなる木はまだ知らぬ」「仏法無多子」)。

*無は純粋経験の当体である。

*禅が具体的・現実的なのは中国的思惟方法の影響、「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」「鬼神(死後の霊魂)を敬して、これを遠ざく」(『論語』)

 

(5)では「(絶対)無」とは何か

絶対無そのものは不可説、口で(言葉を使って)説けばなにがしか限定したことになるから。

禅は無の事柄であるが故に本来説けない。

このことに関する話。

例一、「世尊、入涅槃に臨んで、文殊、佛を請じて再び法輪を転ぜしめんとする。世尊、咄して云く、「吾れ四十九年住世、未だ一字を説かず。汝、請じて吾れに再び法輪を転ぜよと。是れ吾れ曾て法輪を転ずや」。四十九年一字不説(世尊未説)。

例二、達磨面壁九年(嵩山少林寺、二祖慧可、断肘の図)。維摩詰の沈黙(不二法門)。

例三、「不立文字、教外別伝」

例四、かつての西田先生の話。明治三十年(二十七歳)、天龍寺・滴水和尚(山岡鉄舟、全生庵、安部首相、中曽根康弘)へ手紙を出して疑問を尋ねたその返事。「古徳曰、我に語句なく一法の人に与うるものなし、無、老僧此の外さらに教示なし、已来は筆談御免」(雪峰の仏法についての質問に対して徳山曰、「我宗には言葉で表現できるものなし、また他人から求められて与える何物もない」

例五、西谷啓治の居士号「渓声」について。「渓声便是広長舌、山色豈非清浄身、夜来八万四千偈、他日如何挙示人」(蘇東坡)
つまり禅では「口で云えば、すべて錯、つまり間違い、「不言最親」言わざる最も親し」、それでは「お経」とは何なのか(佛説…経。如是我聞)。①月(真理、無)を指す指、方便にすぎないが、②悟りの智慧(般若、パーリ語でパーニャ、サンスクリット語でプラジュナ)の表明。普通の意識(分別意識、第六識)では届かない。例としての般若心経(二七六文字)
*経典の現代誤訳の問題、「経を読めば佛になれぬ」(読まずして読む)

 

(6)般若心経「色即是空、空即是色」

(「無即有、有即無」、「色」=身体、具体的事物 意味は「物はそのまま空、空はそのまま物である」(断滅・虚無・断見と、常住不滅・常見とを排す、中)。

第六識(分別意識)では理解不可能、悟りの智慧=般若を生む第九識(アマラ識、清浄心)=無分別の分別意識、唯佛與佛
柳澤桂子(やなぎさわけいこ・生命科学者)訳、「形あるもの、いいかえれば物質的存在を私たちは現象としてとらえているのですが 現象というものは 時々刻々変化するものであって 変化しない実体というものがありません/実体がないからこそ 形をつくれるのです 実体がなくて 変化するからこそ 物質であることができるのです」(外から見た分析的説明、析空観)

鈴木大拙訳、”What is form that is emptiness, what is emptiness that is form.”
因みに西田はこれを「絶対否定即絶対肯定」の論理を示す事として理解する。(テキスト上ではこのように理→事の方向をとっているが、実際上は事→理である。

*西田テキストに見られる異常なほどの禅語の使用の意味は?

 

(7)言葉で説けないとすれば、どう伝えるか(伝法の方法)。伝えんとするものが自ら無を行じてみせる(全体作用的)

例一、「世尊、霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に不嘱す。」」(「世尊拈花」『無門関』第六則)

例二、柴山全慶老師(南禅寺、アメリカの大学で講義、学僧)、師匠は河野霧海(南針軒)。
全慶老師、学問が好きで勉強三昧。作務が身につかず、それを見た霧海老師、廊下を拭いてみせた。色即是空、空即是色の般若心経を実際に説いてみせた(不立文字教外別伝)。今も師匠から受けたあの痛棒が身に染みる。

例三、「世尊拈花」の現代版。何時だったか先生のお宅で大拙先生と一緒になったことがある。何かの話のうちに、大拙先生は、禅は要するにこういうもんだと言って、前のテーブルをガタガタ動かされた。西田先生にはそれが余程面白かったのであろう。その後も、外の人々のいる席上で、「君も居たから知っているだろう」と私の方を顧みながら、「大拙が言ったことだが、禅は要するにこういうもんだ」といって、やはりテーブルをガタガタ動かされた。

(西谷啓治『わが師西田幾多郎先生を語る』)上田閑照集、第四巻、七五ページ。

 

(8)補足。禅は「説明」を嫌う、観念論(理想主義)を排す。(「無」を生きる、これが禅、活潑潑地)。

例一、法眼、二、三人と行脚の折、雨に降られて地藏和尚の寺に一泊。つぎの日、雨があがって、寺を辞そうとした時、地藏が尋ねる、「貴公は唯識論を専門に勉強されたと聞くが、目の前の庭の石は心の内にあるのか、それとも外にあるのか」、法眼曰「内にある」。蔵曰、「重いものを心中に入れて行脚とはご苦労なこと」。法眼、窮して以て対なし。

例二、観念論の限界。西谷啓治先生の場合。哲学宗教、ニヒリズムの超克。「哲学をそれこれやりながら、これでいけると。実際そういう感じでしたけどね。やっているうちに、何となく、自分の足の裏と地面との間に隙間が。どこか、足が地についていないという、そういう感じです」「自分がいきていくという一番根本のところで、何か透明な壁がある、限界にぶつかるというような感じです」。「足が地についていないというのは、哲学をやっていって解決できるということと質の違ったことです。どの哲学を勉強したらいいとか、そういうこととは、ちょっと違う感じです」(上田『宗教と非宗教の間』、三〇一頁)。西谷・八木『直接経験』五七頁)。

例三、「南泉一株花」。「陸亘大夫、南泉と語話する次、陸云く、肇法師いわく、天地と我と同根、万物と我と一体と。また甚だ奇怪なり。南泉、庭前の花を指さして、大夫を召して云く、時の人、この一株の花を見ること、夢の如くに相似たり」。

*陸亘大夫(七六四-八三四、唐朝の官吏)。肇法師(仏典漢訳者・鳩摩羅什の弟子、優秀な学僧、『肇論』)。奇怪(「納得できぬ」「すばらしい」)。

例四、下村寅太郎先生の場合。数理哲学・科学哲学論、芸術精神史。『無限論の形成と構造』(一九四四)。西田の無の問題を無限の問題として論じる。

下村「教官室で一緒に昼食をするのであったが、森本さんはいつも握り飯で、手掴みで食べられた。ある時、私の弁当箱をのぞいて、菜の残っているのを見て、「残さはるのやったら貰ひまっさ」とさっと無造作に手を延ばして召し上った。咄嗟に、禅僧の機鋒はこういう所にでるものかと、名状しがたい感銘をうけた」。(無作の作、撃石火、雷電光。没縦跡)。

森本「昼の弁当を食べながら先生、無限論の話を弁舌さわやかにされる。その話さっぱり分からんけれども、無限をぽろぽらこぼしはりますねん」。(「尽大地撮来如粟米粒大」)。無限論の延長線上に無限論展開できない。有の立場だから。

絶対無の諸性格。無は動的である、「転じながら、はたらいて行く」。(なぜか、無が有と即しているがゆえに、有が縁となって展開すると考えられる)。

1、無なるがゆえに無限に創造的に展開する。禅語に「無一物中無尽蔵、花 有り月有り楼台(ろうたい、高い建物)有り」。また、西田先生、三十八年日記「禅は音楽なり、禅は美術なり、禅は運動なり」(禅がかく創造的に展開できるのも禅が無を根底とするから)。京都のおもてなし、「何もございませんが、次々御馳走が出てくる」「無一物中無尽蔵、てんぷら有り、茶碗蒸しあり、御造り有り」

2、無の動性は無なるゆえに同時に静的である、西田哲学で「動即静、静即動」。有の世界では徹底しない。

3、無の動性は無なるゆえに(抵抗なきゆえに)自由自在(絶対自由)である。有の世界では有に取り囲まれており、対象が意識をとらえる。「慧玄が這裡に生死なし」盤珪「不生」→直に「物となって考え、物となって行う」ことが可能となる。「囚われない」

4、無の動性は同じ理由によって、特に智慧(無分別の分別、分別の無分別)となってはたらく場合には「電光石火」のごとき俊敏性をそなえている。西田の行為的直観的(躊躇、逡巡しない)

5.無の動性は無の上での運動であるがゆえに、その跡を残さない。没縦跡(用処無縦跡、臨済録、起歩歩清風)、無執着(カラッとしている。原担山の例(ある僧と行脚の途中での出来事。)

(注)原担山、昌平黌にて儒学を学び、口を極めて仏法を罵る。折しも一人の禅僧あらわれ論戦を挑まれ、これに敗れる。これを機に禅に参じついに印可を得るに至る。後、京都東山に庵を結んで暫く侘び住まいをした後、再び江戸に出て易者となり糊口をしのぐ。底を東大総長(加藤弘之)に見いだされ、初代印度哲学科の講師となって仏典を講ずる。この人、大変な豪傑であったようで、恩人総長の葬儀の際には導師を買って出、その時の法語にくっると参会者の方に振り返るや「お前らも死ぬぞ!」と叱したという。執着心の強い人、あるいは固定観念の強い人は是非「無の油をさす」をさす必要あり。

6、西田哲学はその全体において無の動性をよく示している。
――「唯一の者の自発自転」「実在の分化発展」(「唯一の者」「実在」の当体は「空」「無」、「自発自転」「分化発展」するものはその「空」である。
――「働くもの」「作用」「ポイエシス(制作)」、「作られたものから作るものへ「、「歴史的」(ゲシヒトリッヒ、自己がその中に入った歴史)、「創造的」、など。
久松真一(人類の誓い) [superhistoricak history] [formless self] [allmankind]

7、無は口で説いをてもらうわけに行かないから自知(体得、理屈ではなく身体を通す)するほかなし。しかし、そのことはそう簡単ではない(西田先生は八年かかられた)から、正師(明師)につく必要あり。また、学校とは違った教育機関(道場)も必要となる。長岡禅塾は大学生を対象とする日本で唯一の道場である。
(一〇)改めて禅とは――絶対の無による日常生活

例一、「趙州因僧問、某甲(それがし)乍入叢林、乞師指示、州云喫粥了也未、僧云喫粥了也。州云洗鉢盂去」
例二、「南泉因趙州問、如何是道、泉云平常心是道」
例三、「趙州因僧問、如何是祖師西来意(仏法の根本義)、州云庭前柏樹子」

*「威儀(礼儀に関する細則)即仏法」「行即仏法」

例一、道元と典座の話
一二二三年、道元、中国の慶元府に停泊中の日本船の中にあり。そこに阿育王山に居住する典座役の老僧(六十一歳)がだし汁に使う椎茸を求めにやってくる。その僧に道元が尋ねる、「あなたほどのお年で、何で坐禅弁道し、また古人の公案などを読むことをなさらずに、わずらわしい典座の職におつきになって働くのですか、食事をつくるような仕事に何かいいことでもあるのですか」。すると老僧は大笑いして、「あなたはまだ弁道の何たるかを知らない、文字の何たるかをご存じない」と。そこで道元は尋ねた、「文字とはいかなるものか、弁道とはいかなるものか」。老僧曰く、「今、あなたがお尋ねになったこと、」そのことが文字であり、弁道である」。

例二、中国に昔一人の長老が経蔵の片隅に蹲っていると、経蔵の蔵主がやってきて、長老に向い、「そんなところで何をしているんだね」「私は字が読めませんので、こうして蹲っております」「字が読めんのなら、私に訊ねなさい」。長老は手を胸の上にのせ、鞠のようになって身を屈め、「この字をなんと読むのでしょうか」「・・・・?」(『長岡禅塾』三頁)

例三、マリアとマルタの話(ルカ伝、十章三八~四二節)
イエスがある村に入られた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリアという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言(葉)に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきていった、「主よ、妹が私だけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて云われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。

(一一)西田哲学でも「日常性の世界」の重視

*伝記等から読み取れる日常性の世界への真摯な関心(新聞、家族・友人・門下生)。雑用・雑行なし。「無嫌底法」

「『善の研究』においての純粋経験の考以来、私の考え方は最も直接な具体的な実在から出立するというのでした。今はそれを歴史的実在と考えるのでございます」

*「純粋経験」を「歴史」という運動の相でみようとする

「私は現実に我々がその中に生きて働いていると考えられる日常性の世界というものが、最も直接な具体的な世界であると思うのです。それが歴史的実在の世界である」
「物となって考え、物となって行う」「物となって見、物となって聞く」。(「私は我々が行為によって物を見る行為的直観の世界を真の現実の世界と考えるのです」)。

*「純粋経験」を「行為(はたらき)」としてとらえようとする

*「物になる」というのは全く禅の行き方である

「我々がそこから生れ、それにおいて働き、そこへ死んで行く歴史的実在の世界」(運動の相を主体に即して見る)(以上、「『理想』編輯者への手紙」昭和十一年)
――今北洪川、十五ページ、法華経、大隠小隠、西田先生は禅にとらわれなかった(森本)。

*禅の修行において

「悟り」に囚われてはいけない。得たら捨て得たら捨てていく。転じて行く。禅にも囚われない。禅は禅でないにが禅である。
「西田先生の偉い所は、先生は禅をやりながら禅に捉えられなかった。僕は禅に捉えられた。」一三〇ページ。(我見解「好雪片々不落別処」「鉢裏飯、桶裏水」)

5、以上のような無の動性もとづく諸性格を総称して「幽」「妙」という。「心随萬境バンキョウ轉 轉処実能幽」(西天二十二祖マヌラ尊者)。

西田の書
天台僧「教外別伝の禅如何」、大燈国師「八角の磨盤、空裏を走る」(宗論)
禅生活の実践例、伊庭貞剛いばていごうの場合(日曜夕六時から、住友林業スポンサー「森人もりにん」)

長岡禅塾のこと、森本省念老師
「総合生存学館」=「思修館」=「仏教の三慧(聞思修)」、禅定によって得られる般若の智慧(パーリ語、panna, サンスクリット語、prajna)
純粋経験の哲学、絶対無の場所の哲学

*参考文献、
この担山がまだ修行中の話。
大円鏡智(色界に入って色惑を被らず・・・)、

〇長岡禅塾と京都学派の関係
岩井勝次郎が京大へ奨学金を出していた。当時、塾生に京大生多し。

〇絶対無をつまんで出せ

〇無をどう考えるか、庭前柏樹

〇日常生活、平常是道、趙州洗鉢、谷側の水音、渓声(西谷の居士号)是広長舌、

〇下村寅太郎。禅での数字、南泉に「一、二、三」、雪三五則の「前三三後三三」
下村の「遭逢の人」に食事の風景あり、弟子土井道子の評。京都学派と森本老師。
注、今後筆談お断り。釈迦の沈黙(世尊掩室)、「血を含んで人に吐けば、先ずその口を汚す」(口で説く事、大間違い)

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