北野大雲老師京大講義録(3)
平成28年5月6日 京大講義録
禅とは何か
〈はじめに〉――森本省念老師「私の西田先生」
禅とは何か、無とは何かについて話をすることになっているわけですが、不立文字――「ふりゅうもんじ」と読みます――すなわち「文字を立てない」ことが禅の立場ですので、それはほとんど不可能に近いことになります。
このことを十分承知した上で話を進めたいと思います。
私が住まいをしています長岡禅塾は京都学派と少なからぬ因縁があります。
と言いますのは、長岡禅塾第二代塾長は森本省念老師というお方でしたが、この方は西田幾多郎先生の比較的早い時期からの高弟のひとりでした。
年譜をしらべてみますと、森本老師の京大入学は1944(明治44)年ですが――同期には禅学者となった久松真一先生がおられました――、それは西田先生が40歳で京大に赴任してきた年の翌年に当ります。
森本省念=森本孝治、1889(明治22)~1984(昭和59)。大阪市に生まれる。大学生時からの長い参禅の期間を経て44歳で出家。1951年に長岡禅塾塾長となる。
久松真一=1889(明治22)~1980(昭和55)。岐阜県に生まれる。26歳の時に見性する。43歳から京都大学で宗教学、仏教学を講ず。禅芸術方面にも優れた業績を残す。
その森本老師に「私の西田先生」(『禅 森本省念の世界』所収)と題した文章が残されていますので、そこから何か所かを抜き出して紹介してみようと思います。
まず西田先生の人物評に関して次のように述べられています。
先生には何処か隠者の趣があって、家に在って家を離れ、何ものをも突き破ってゆくと云った匂が漂うてゐて、それが私を励ましめるのです。
相国僧堂在錫のとき庫下が廻りかね合米を御願ひしたときの先生の御叮嚀なる態度で御引受け下さった事等を思ひ合はせて先生は出家についてあこがれを無意識裡に包蔵してゐられたのではあるまいかと思はれます。
知られていますように、西田先生は若い頃、熱心に禅修行に勤しまれました。
その経験が出家道への同情をいっそう強くしたものと想像されます。
森本老師が西田先生に見た「隠者の趣」とは、長年の禅修行によって鍛えられた先生の禅定の力が醸し出した雰囲気だったと思います。
「家に在って家を離れ、何ものをも突き破ってゆくと云った匂」は、学問的研究に対する西田先生の態度に言及したものですが、このことに関して森本老師は以下のようにも語っています。
大学での御講義は其後ずっと続けてききました。
何を教えられたか今は殆ど忘れましたが只一つ先生から受けたものが大燈国師の遺戒から受ける感じと通ずるものがある、底の底へと掘り下げてゆくこと、無理会の処に向って究め来り究め去るべしといふことです。
外へも内へも斬り込んで棄ててゆくこと、人もすて境もすててゆくことのそれです。
「私の西田先生」の中から次に紹介しておきたいのは『善の研究』の成立事情に関する貴重な証言にあたる部分です。
京大一年生の時(中略)先生に質問しました、『善の研究』は西洋哲学書研究からのみ出来たものか、それとも禅的修行とか見性体験とかが加はって出来たものでせうか。先生ははっきりと云はれました、両方からだ。
「見性体験」とは「自性すなわち自己の本性を徹見すること」というほどの意味です。
ここで面白いと思いますのは、森本老師が「先生ははっきりと云はれました」というふうに、わざわざ「はっきりと」という言葉を言い添えていることです。
そこには「やはり自分が想像していた通りだった」という確認の響きが聞き取れます。
さて、先生は「両方からだ」と答えられたわけですが、どう「両方から」だったのでしょうか。
そこが問題になるでしょう。
まず禅の方からは、禅修行を通して絶対の無に触れるという体験が先生にはあって、それを哲学の根本原理とする、そういうことだったと思います。
西洋哲学の方からは、絶対の無を原理として一切を説明してゆく際の方法をそこから借りるということだったでしょう。
『善の研究』では、原理となる「絶対の無」を「純粋経験(主もない客もない)」や「直接経験」という当時流行していたW.ジェイムズやA.ベルグソンなどの術語に置き換え、その概念を中心に西洋哲学に伝統する思惟方法に則って一切が――純粋経験・実在・善(倫理)・宗教の四部門として―一説明されています。
(それゆえに禅の立場から西田哲学が見通せる場面があり、逆に西田哲学が禅の事実の説明になっている場合があります)。
『善の研究』以後、西田哲学はあたかも「無理会の処に向って究め来たり究め去る」かのごとく深化展開してゆくのですが、無の体験を原理にしたその哲学の根本的性格は変わりませんでした。
そこで西田哲学の理解には、従来の西洋哲学理解とはまったく違った立場が要求されることになります。
西洋哲学の場合は名前がどう変わろうと結局「有るもの」を究極の原理としているのですが、西田の哲学はそれとは反対に「絶対の無」を究極的原理にしています。
この点で西洋哲学とまったく質を異にする独創的な哲学なのです。
そういうわけですから、西洋哲学を理解するのと同じような「有」の立場で西田哲学を理解しようとすることでは具合がわるいのです。
ところが実際にはその点について十分注意されてこなかったようで、西田先生ご自身の不満が「私の西田先生」でも触れられています。
或時参上の時、田辺元先生のことを話されて、久松[真一]や君は僕の議論の途中は十分知らぬけれどもその結論を知ってくれる、田辺は途中の話の動きは理解しても僕がこちらへ落とすのをあちらへ落として誤解すると云はれました。
久松先生や森本老師は一流の禅者でしたので、西田哲学の根本原理である絶対の無にすでに触れていました。
それゆえにまた西田先生の言わんとするところもよく了知することができたのでしょう。
それに対して、その頃の田辺先生はまだ無の宗教的な境位が深まっておらず、そのためにどこまでも有の論理で押し通してゆかんとする態度が強かったものと思われます。
西田先生はそこに田辺先生に対して不満をもたれたのでしょう。
西田先生のそうした不満は最晩年まで続きました。
絶筆となった「私の論理について」(『続 思索と体験』所収)の中でも「私の論理というのは学界から理解せられない」、批評があっても、それは「異なった立場から私のいう所を曲解し」たものであると慨嘆されています。
私が本日ここで禅や無についての話をしなければならなくなった理由もおそらくその辺にあろうかと想像します。
それでは次に禅についての話に移ってゆきます。
Ⅰ.〈禅の要諦〉――道元禅師の言葉
道元禅師の次の言葉の中に、禅の何であるかが簡にして要を得たしかたで示されていますので、まずその全体を見、つぎに小節ごとに注釈をつけてゆくことにします。
仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするゝなり。
自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。(『正法眼蔵』「現成公案」)
一段目の「仏道をならふ」というところの「仏道」ですが、これは「仏の道」ということですから、仏教一般に通用する言葉ですが、ここでは主に禅のことが念頭におかれていると言えるでしょう。
ですので、ここでは「仏道」を「禅」と読み替えたいと思います。
「ならふ」は、私たちが「習い事」というときに「身体を使う」ということがそこに含まれていますように、「実習・実験(実地の行)、体究・体験」の意であって、単なる「考究・考察」の意ではありません。
一段目の後半部の「自己をならふ」とは「真の自己(自己の正体・根拠)を体究・体得・見性する」ということです。
禅の世界では禅修行のことを「己事究明」――現代哲学の用語を使えば「実存開明」となるでしょうか――と言っています。
そういうわけですから、坐禅に代表される禅修行は今流行している各種の心理療法(マインドフルネス等)や健康法(ヨーガ等)と同じではありません。
もちろん心理的生理的効果も期待できないことはないのですが、禅は決してそれらを主目的にしたものではなく、あくまでも自己の正体を究明することを主眼としています。
近来、あちらこちらから禅会の盛況ぶりが伝えられてきますが、それが果たして真に禅の盛んなことを証明するものかどうか怪しく思われます。
二段目の「自己をわするゝなり」の箇所に移りましょう。
これは「自己なし(無我・無心・無)」を体得することを言います。
禅の実習(修行)はすべてこの「自己なし」のための行(禅定・三昧)を修することを目指しています。
作務(労働)・誦経の意義もまたそこにあります。
代表的な行は坐禅ですが、坐禅はただ坐っているだけではなく、初心者は坐中に数息観という数を数えながらの呼吸法を行い、また雲水のように専門的に禅の修行をする者は与えられた公案(祖師たちの言行録にもとづく思慮を絶した問い)を拈提(公案について工夫参究すること)しながら、禅定を修しつつ自己をわすれるようにします。
三段目の「万法に証せらるヽ」というのは、「自己なし」の自己が事物と一つとなり(主客合一・物我一如・純粋経験)、そのことによって(自己が)すべての事物によって証しされる。言い換えますと、そのつどの事物によって「自己なし」の自己(これが真の自己)の存在が証明されるということです。
したがって、「自己なし」(無)とは何もなくなることではありません。
却って万物の横溢した状態だと言えます。
このことを禅では「無一物中無尽蔵、花有り月有り楼台有り」といっていますが、『善の研究』(第二編第三章)において「実在の真景」として述べられている箇所は、まさにそうした事態を説明いるように思います。
直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる客観もない。
恰も我々が美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。
これで三段すべての注釈が終りましたので、全体を通した私の意訳を示しておきます。
仏道(禅)を実地に行ずるということは、真の自己を求めて行ずることである。
真の自己を求めて行ずることは、「自己なし(無我)」を体験することである。
「自己なし(無我)」を体験することは、そのつどの事物によって真の自己の存在が証しされることである。
以上、道元禅師の言葉を見てみました。
これで一応説明は終ったように思えますが、しかし、まだ問題が残されています。
当たり前のことですが、この語り手は道元で、聞き手は皆さんです。
ここに問題がひとつ潜んでいるように思います。
と言いますのは、道元は「悟れる者・覚者・仏」ですが、皆さんは残念ながら今はまだ「未悟者・未覚者・衆生」です。
そういうことですから、道元の語りは、ちょうど苦労して高い山の頂に上り得た者が、頂上に辿り着くまでの途中の風光を他の人に語って聞かせるようなもので(仏教の用語では「還相・向下」、ヘーゲルの哲学では「絶対知・絶対者」の立場)、聞くものの側からすると何の実感もありません。
そこで聞くものの側から語り手に対して幾つかの問いが出てくることが予想されます(仏教の言葉で「往相、向上」、ヘーゲルの哲学では「われわれ」の立場)。
今そういうことを想定して以下の話をつづけてゆきたいと思います。
最初に一段目で「仏道をならふ」ということが言われているのですが、「何故に仏道をならわなければならならないのか」、そういう問いが衆生の側から出てくることがあると思います。
その答えは一段目後半部の「自己をならふ」に示唆されています。
つまり、「仏道をならふ」必要が生じるのは、「自己」に問題が生じてくるからなのです。
それまで自明であった自己の存在に齟齬が生じてくる、哲学的に言えば自己存在が即自的な有り方から対自的な有り方に変化する、そのことによって「自己の在処に迷う」(西田幾多郎)ことになります。
この状態が切迫性を伴ってくるとき、私たちは哲学や宗教の道に誘われることになります(道元の場合なら仏道ということになります)。
例を挙げてみましょう。
釈尊は釈迦族の王子として、夏・冬・雨季のために三宮殿があったほど、何不自由ない生活を送っていました。
とある時、つぎのように考えたと言われています。(『増支部』3-38)
私は実にかく裕福で大変快適であったにもかかわらず次の思いが生じた。
無聞の凡夫(日常的人間)は、自ら老法であって(老の法則の必然性に服していて)、老を越えていない。
しかも老いた他人を見ると、自らを悩みつつ、これを悩み、恥じ、嫌悪する。
私も老法であって、老を越えない。
その私が他人の老を見てこれを悩み、恥じ、嫌悪することは、私に応しくない。
このように私が省察したとき、私の若さにおける若さの驕慢(mada)はことごとく払い取られた。(武内義範訳)
以下、老について述べられたのとまったく同じ筆法で病・死についての省察が進められています。
ここで大切なことは、老・病・死が若き釈尊にとって疎遠なこととしてではなく、「自らを悩みつつ」と言われていますように、現在の自己の問題として受け止められたということです。
かくして釈尊においてそれまで無事であった自己の存在がその根底から動揺することになります。
そこで釈尊は真の自己を究明するために、すべてを放棄して出家の道に入ることになるのです。
道元禅師の場合にもよく似た事情がありました。
道元は8歳のときに母の死に遭うのですが、そのことが道元の生涯に決定的な影響をあたえたと考えられます。
その行業記には「慈母の喪に遇ひ、香火の煙を観て、潜に世間の無常を悟り、深く求法の大願を立つ」とあります。
西田幾多郎は哲学の根源は「悲哀」であると述べています。
その伝記を繙いてみますと、西田の一生は苦難の連続であったと言えます。
彼の禅や哲学への並々ならぬ没頭は、人生悲哀の情がそこへと駆り立てたものと想像されます。
もう少し皆さんにとって身近な例を挙げておきましょう。
京都大学の哲学科の学生が何やら煩悶があるらしくある老師を訪ね、いきなり「人間は死んだらどうなりますか」と問うたそうです。
以下、問答はつぎのように続きます。
老師、「そうだなア、息が止まるじゃろう」。
「息が止まって、どうなりますか」
「そうサ、火葬場へ行くじゃろう」
「火葬場へ行って、どうなりますか」
「灰になるじゃろう」
「灰になってどうなりますか」
「それから先は知らん」。
老師がそう答えられますと、学生は「結局、人生の目的は何なんですか」と尋ねました。
老師の答えは意外なものでした。
「遊ぶんだな」。
老師の「遊ぶんだな」という答えは無の生活の極意、すなわち無碍三昧の人生を述べたものですが、学生には分からなかったでしょう。
それはともかくとして、その学生は自己の死の問題によって、自らの存在が不確実になり、不安のあまり老師を訪ねたに違いないのです。
皆さんもそういうような不安を感じられたことがあるのではないでしょうか。
そのとき皆さんも宗教の門の前まで来たということになるでしょう。
一段目で「ならふ」の注釈として、それは考究の意味ではなく「実地の行」のことであるといいました。
では、なぜ「実地の行」が必要なのでしょうか。
その理由は、「考えられた自己(鏡中の自己)」は真の自己ではなく、真の自己は「考える自己(鏡前の自己)」の方に求められねばなりません。
そこで「考える自己」の正体を明らかにする必要があるわけですが、その場合、「考える」道がもはや閉ざされている以上――「考える」ことは「鏡中の自己」を知ることにすぎませんから――、それを会得する道は「考える」ことではなく「行ずる」ことでしかありえません。
行じて会得するのです。
それは真の自己の発見という出来事です。
ついでながら、日本仏教史において、一切衆生悉皆成仏の立場から「実地の行(修行)」を否定する考え方が平安中期頃の比叡山でおこりました(本覚の法門)。
そして、その結果は仏教の目を覆いたくなるような堕落でした。
一切衆生悉皆成仏は衆生の可能態について言っているのであって、現実態としての衆生は未だ仏になりえていないただの衆生にすぎないでしょう。
やはり「実地の行」が必要となり(始覚の法門)。
二段目の問題に移りましょう。そこでの問題は、なぜ真実の自己の究明は「自己をわするゝ」「自己なし」の方向にもとめられねばならないのか、ということです。
それは「自己をわすれない」「自己(我)」を立てる有相の立場は、主観客観二元対立の立場ですが、そこからは認識の問題、倫理の問題、宗教の問題を究極的に解決することは不可能だからです。
認識の問題としては、主客の対立する枠内ではカントが言ったように、物自体を知ることはできません。
倫理の問題としては主観は自我、客観は他我となって自他対立の問題が解消できません。
宗教の問題はと生死の問題ですが、生死を対象的に見る立場ではその問題の解決は相対的な解決に終ります。
道元は言っています、「自己をはこびて万法を修証する(自己を主として自己の外なる万法を認めようとすること)を迷とす、万法すヽみて自己を修証する(万法の方から自己の存在が実証されること)はさとりなり」。
だから西田も言いました、「物となって考え、物となって見る(行う)」と。
三段目に関する問いは、なぜ「万物に証せらるゝ」ことが真実自己の証しになるのか、ということです。
これについて、私は体験的に答えてみようと思います。
たとえば、私たちが何かに無我夢中になっていたとします。
無我夢中ですので、その時は何の意識もありません(自己なし)。
ただ夢中(主客合一、三昧の状態)です。
ところがそこから我に返った時(主客分裂)、夢中であった先の心的状態に対して、何とも言えない充実感を覚えます。
この充実感は何のでしょうか。
私はこれを「(自己)存在の充実」と呼びたいと思います。
その充実において「自己なしの自己」(真の自己)が遺憾なく証明されていると思います。
Ⅱ.〈無の性格〉――静即動・動即静
以上の説明では無は何か静的な印象を与えたかもしれませんが、実は同時に動的(作用的)でもあるのです。
この点から見ますと、無は「はたらくもの」「無限の活動」と言うこともできます。
久松真一は無のそうした面に注意して、東洋的無は「能動的無」であると言っています。
禅の基本的なテキストである『臨済録』では無の動性が「活潑潑地(かっぱつぱっち)」という言葉で表現されていますが、この言葉の響きには無の躍動感が実によく示されたいるように思います。
しかし、こうした無の動性は同時に無の静性によって裏打ちされています。
まとめて言えば、静にして動、動にして静、これが無の根本的な性格ということになります。
ですので禅定の無は、単に静寂だけを目的とするMeditationとは必ずしも同じではないと言えましょう。
これらのことを理解した上で、無の動性(はたらき)の諸相について見て行くことにしましょう。
(1). 第一として、無は叡智的にはたらきます。すなわち無は智慧、悟りの智慧(般若の智慧)となってはたらきます。
仏教用語に「止観」という言葉がありますが、「止」は「禅定(無の状態)」を、「観」は「智慧」を意味しており、したがって「止観」は「無」から「智慧」のはたらきでることを示しています。
鈴木大拙の使った「無分別の分別(無知の知)」という用語もまた同様のことを表わした言葉だということができます。
(2). 無は叡智的であると同時に行為的なのです。つまり無において智慧は行為と一体となってはたらきます。
無における智慧と行為との一体性を西田哲学は「行為的直観」という術語で言い表しています。
「智慧」と言わず「直観」と呼んでいますのは、「智慧」は電光石火のごとき「直観」だからです。
では無はどう行為的直観的にはたらきのでしょうか。
禅の世界では「平常即道(日常の生活そのものが仏道を行じていることである)」ということを言いますが、私たちが普段「我知らず」「無心」に行っている行為はそれに他なりません。
すなわち、服を着たりご飯を食べたり(禅の言葉では「着衣喫飯」)、また行ったり止まったり、坐ったり横になったりすること(「行住坐臥」)は大抵行為的直観的であるということができます。
「大抵」と言いましたのは、普通の人の場合、平常の行いであっても「無心」でないこともあるからです。
禅者の場合は、何事を行うときでも基本的に無になって行います。
一つ例を挙げておきましょう。
京都学派の一人でもある下村寅太郎(1902-1995)が森本老師の無心の行為について述べています。
教官室で一緒に昼食をするのであったが、森本さんは何時も握り飯で、手掴みで食べられた。
ある時、私の弁当箱をのぞいて、菜の残っているのを見て「残さはるのやったら貰ひまっさ」とさっと無造作に手を延ばして召し上った。
咄嗟に、禅僧の機鋒[心のはたらき]はこういう所に出るものかと、名状しがたい感銘をうけた。(下村寅太郎『遭逢の人』)
下村寅太郎=1902(明治35)~1995(平成7)。京都学派の一人。科学と芸術の両面を思想史の立場からとらえた。著作に『科学史の哲学』『無限論の形成と構造』『レオナルド・ダ・ヴィンチ』『モナ・リザ論考』などがある。
(3). 無は叡知的・行為的のみならず、また慈愛的にはたらきます。無において智慧と慈悲とは一体であり、それがただちに行為となって現れるということができます。
智慧と慈悲の一如性については、西田幾多郎が『善の研究』第四編第五章で述べている「知と愛」についての説明が大変参考になりますので引用してみます。
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。
しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。
然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。
知と愛とは主客合一の作用として同一の精神作用である、これが引用文の主旨です。
ここの「主客合一の作用」は「無のはたらき」と読みかえることができれば、西田がここで「知と愛」と言っているものは、仏教の用語で言えば智慧と慈悲」のことになります。
これらの点についてはさらに厳密な考察を要しましょうが、少なくとも参考にはなると思いますので、関心のある人は是非「知と愛」の個所を読んでみてください。
(4). 以上、無のはたらきは知情意の全体作用であるということができます。
(ついでながら、西田は最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」で「全体作用」の語を使っていますが、これはもと『臨済録』に出てくる言葉です)。
Ⅲ、〈質疑応答〉――学生の質問から
質問の一:仏教では死んだら成仏する(仏になる)と言われていますが、そのことと禅でいうところの無とはどういう関係にあるのでしょうか。
答え:仏教でいう仏は何か有るものを指すのではなく無の別名に他なりません。例えば、アミダ仏の「ア」否定辞、「ミダ」は「量」の義で、「アミダ」は全体で「無量」すなわち「量ることのできない」=「無」を意味しています。したがってアミダ仏は無の仏のことになります。私たちは死んだら生死の根源である無に帰入するのです。
質問の二:仏教で「諸行無常」ということが強調されてきましたが、この「無常」は、禅の無に通じるところがあるのですか、あるいは違いがあるのですか。
答え:「諸行無常」は仏教の真実です。普通では「無常(常なし)」を「事物のはかなさ」を示す客観的・消極的な言葉として理解されてきたように思います。それは「時」というものを対象的に見ています。禅の世界でもそういう意味でいう場合もないわけではありませんが、禅の本来的立場からは「今ここ」の充実した連続として、もっと主体的・積極的に受け取っていきたいと思います。ですから、普通の場合と禅では「無」の理解のしかたがそのように違ってくると思います。
この講義では最後の15分間を学生諸君の質問の時間としました。その中から印象に残っている質問を二つ選んでここに載せてみました。