北野大雲老師京大講義録(4)
平成29年5月12日 京大講義録
禅とは何か
禅とは純粋経験のことである――『無門関』を身読する
これまで禅についていろいろの角度から話をしてきましたが、今回が私の京大講義の最後になりますので、ここでひとつ思い切った説明のしかたをしてみようと思います。
と言いますのは、禅を「純粋経験」で説明しつくすことには無理が あるのですが、ここでは「純粋経験」の概念が含蓄しているところまでを見通しておいて、話を進めて行きたいと思います。
序、ひとつのエピソード――「ノギ・マレスケ」をどう読むか
今日の話を始める前に、ひとつのエピソードを紹介したいと思います。
これは私の師匠の浅井義宣老師がまだ大学生であったころの話です。
西田幾多郎の高弟、長岡禅塾第二世森本省念老師は最初の講義の折りに、いきなり黒板に「ノギ・マレスケ」と書き、そして聴講生たちに向って、「諸君、これをどう読みますか」と尋ねられたそうです。
「大学生のわれわれを馬鹿にしている」と、みんな思ったことでしょう。
さにあらず! 森本老師は学生たちの一人ひとりに答えさせて行きました。
当然、どの学生も普通に、「ノギ・マレスケ」と読みます。
しかし、それらは森本老師を満足させる答えではありませんでした。
そこで、ある学生が、「それでは先生はどう読まれますか」と尋ねますと、老師は直立不動の姿勢をとって、「ノギ・マレスケ」と、大声されました。
その様子を見て、学生は反論します。
「何も変わらないではありませんか」。
「全然、違います」。
これが森本老師の返答でした。
さて、両者の違いはどこにあるか、おわかりでしょうか。
―― 学生たちの読み方が普通の読み方であったのに対して、老師の読み方は禅としての読み方、また純粋経験としての読み方であったと言えます。
そして、読み方としては前者が非真実の、後者が真実のそれであったと言えるのです。
なぜなら、西田哲学に即して言いますと、前者が非実在的であるのに対し、後者は真に実在そのものになっているからです。
話の内容が少し先走りしてしまったようです。
今日はこの辺のことをできるだけ分かりやすくお話ししてみようと考えています。
そこで、まず表題に表わされた言葉について確認をしておきましょう。
表題の言葉の説明
最初に、「純粋経験」についてですが、これは西田幾多郎の処女作『善の研究』のキーワードであることは言うまでもありません。
その本のなかで西田は、「純粋経験」について、「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く同一である」ような経験、「毫も思慮分別を加えない」経験であると説明しています。
「主もなく客もない」(主客未分、主客合一)ということは、結局、何もないということになります。
絶対の無です。
そこで西田はやがて「純粋経験」に替えて「絶対無」を自己の哲学の根本原理とするようになって行きます。
そして、絶対の「無」はまた禅の根本でもあります。
また、「思慮分別を加えない」とは、「分別」に対して「無分別」ということです。
これは禅の世界でよく使われる「三昧」「禅定」「無心」に対応します。
このように「純粋経験」は禅と親密な関係にあることが分かります。
つぎに、『無門関』(1229年)について少し説明しておきます。
この書物は国の禅僧・無門慧開(1183~1261)が著したもので、禅修行のためのもっとも基本的なテキストだと言うことができます。
このテキストは各種出版されていますが、ここでは便宜上、岩波文庫版(西村恵信訳注)を使用することにします。
最後に、「身読」とは「身体全体で読む」「本となって読む」ということで、ですので「純粋経験的に読む」ということになります。
私はこの言葉を、昔読んだ門脇佳吉『公案と聖書の身読――キリスト者の参禅体験』(1977年、春秋社)から借りてきました。
「公案」という言葉は禅独特の言葉で、もと「公府の案牘(あんとく)」の意味です。
つまり、国家の法令または判決文をさします。
そこで禅の世界では、祖師の言行などを選んで修行僧の模範としたもので、全身心をあげて究明すべき問題のことを言います。
西田哲学における「禅と哲学」
西田の「純粋経験」が禅と親密な関係にあることを先にみましたが、それには理由があります。
西田は若いときから坐禅・参禅に勤しんでおりました。
「寸心日記」と呼ばれている日々の記録がそのことを示しています。
しかし、だからと言って、西田の哲学が禅の影響を受けたものだと即断するわけには行きません。
そのために、どうしても西田自身にそのことを質してみる必要があります。
幸いわれわれは三つの証言を挙げてみることができます。
森本省念老師の証言。
森本は学生であったころ、西田に質問しました。
「先生の哲学は西洋哲学研究から出来たのか、禅体験から出来たのか」と。
それに対して西田は、「両方からだ」と答えました(『森本省念の世界』)。
これは西田が禅体験でつかんだ「無」を基礎にして、西洋哲学に伝統する緒概念を借りながら、哲学の根本問題のひとつである「実在」を説明しようとしたことを意味します。
西田の西谷啓治宛ての返書。
そこには、「〔私の哲学の〕背後に禅的なるものと云われるのは全くさうであります。
〔中略〕禅といふものは真に現実把握を生命とするものではないかとおもひます 私はこんなこと不可能であるが何とかして哲学と結合したい これが私の三十代からの念願で御座います」、と書かれています(昭和18年2月19日)。
書中の「禅といふものは真に現実把握を生命とするもの」という表現は、ちょっと分かりにくいように思います。
これは、「禅とは活きた事実そのもの、生命そのものの表出である」、と言い換えてみてもいいでしょう。
真の現実把握は事実を生きるところにあるのであって、事実を理論の言葉に置き換えるところにあるのでは決してありません。
禅はまさに事実(現実)そのものを生きることなのです。
西田は「早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有っていた」と書いています(『善の研究』「版を新にするに当って」)。
そういう直観をもっていた西田ですから、禅に触れるようになってからは、禅に自己の哲学の基礎が見いだせそうだという予感をもったのではないでしょうか。
果して、自らの禅体験を根本経験として、その基礎の上に独自の思惟体系を構築してゆくことになるのですが、その最初の成果が三十代に完成された『善の研究』だったのです。
片岡仁志の証言。
これは私がご本人から直接伺った話です。
片岡は京都大学の学生であったころ、すでに禅について心得があったのですが、西田の『善の研究』を読んで、「先生は禅をおやりになったことがあったのですか」、と尋ねてみたところ、西田は意外にも、「そんなもん、知らん」と、その時はそっけない返事をされたようです。
それは、自分の哲学が禅を説明しようとする禅哲学だと誤解されるのを西田が警戒したためでした。
西田はあくまでも実在の究明をめざす愛知の学としての哲学をめざしていたからです。
しかし、後に片岡が熱心な参禅者であることを知った西田は、先の片岡の質問に対して肯定的に答えられたということです。(片岡仁志については『禅と教育――片岡仁志の世界』を参照)。
西田哲学が禅体験を基礎にしているという性格上、その独特の術語、たとえば、「絶対矛盾的自己同一」「行為的直観」「歴史的実在」等々の概念は、禅に通じたものにとっては比較的理解しやすい面があることを付け加えておきます。
『無門関』の構成と類型化
『無門関』は四十八の公案から成っています。
無門慧開の序文によりますと、「初めより前後を以て叙列せず」とあります。
たしかに全体を見てみますと、第一則――「則」とは公案のことです――「趙州無字(じょうしゅうむじ)」の公案をのぞく、他の四十七の公案の順序には、その配列に何か工夫された形跡はまったく感じられません。
ただ「趙州無字」の公案を第一に挙げてあるのには理由があります。
それは、その公案がすべての公案の基礎をなしているからです。
この意味で「趙州無字」の公案は根本公案と言うことができます。
私たちは最初にこの公案を身読する立場から検討してみましょう。
つぎに、第二則以下の四十七則はたしかに無秩序に並んでいるのですが、そのなかにいくつか類似した公案があります。
そこでここではとりあえず、それらを四つのグループに分けて見て行くことにします。
それぞれ、「物となって考える」、「物となって見る」、そして、「物となって行う」ことを要とする公案群三つと、「真の自己」を主題とした公案群一つです。
「物となって考える」「物となって見る」「物となって行う」という表現は、西田が『善の研究』以後、しばしば使った「物となって考え、物となって見る(行う)」を三分節したものです。
そういった表現は「純粋経験」を行為的方面から見たものだと言うことができます。
「真の自己とは何か」という己事究明は禅修行の最大の課題です。
ですので、当然、『無門関』でも問題にされているわけです。
西田哲学の関心は実在にありましたが、そこでも実在は真実の自己と別のものとはされませんでした。
以下、五類型にふくまれる代表的な公案を二、三例ずつ挙げて見てゆくことにします。
(Ⅰ)「無」そのものの自覚
①趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に還って仏性有りや也た無しや」。州云く、「無」。(第一則「趙州狗子」)
(註)趙州=趙州従諗(じようしゅう・じゅうしん)778~897年、中国唐代の禅僧。狗子(くし、くす)=狗は犬、子は接尾語で小さなものに付加する。
「犬にも仏性が有るのでしょうか、それとも無いのでしょうか」と訊ねた僧は、有るか無いかを分別する立場、したがって主客未分の純粋経験から離れた、主観と客観とが分れた(主客分裂)の立場にたっています。
これに対して、趙州は有無の分別を離れた純粋経験の立場にたって「無」と答えているのです。
それゆえにこの「無」は、趙州が「虚無の会(理解)をなすことなかれ、有無の会をさすことなかれ」と注釈していますように、通常理解されているような「無」の意味ではなく、それを超えたものなのです。
その証拠に、「趙州無字」のもとのテキストでは「無」と答え、また「有」とも答えています。
②趙州、因みに僧問う、「狗子に還って仏性有りや也た無しや」。州云く、「無」。・・・又僧有り問う、「狗子に還って仏性有りや也た無しや」。州云く、「有」。・・・」。
それゆえ、この公案に参じるものは、その点に眼をつける必要があります。
ここでついでに公案の構造について説明しておきますと、公案はたいてい今見ましたように問答の形式をとっています。
そして、その場合、問う僧は分別の立場を代表し(未悟の状態)、対して答える側の僧は無分別つまり純粋経験の立場(悟った状態)にたって問答が展開されています。
(Ⅱ)「物となって見る」
③洞山和尚、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」。山云く、「麻三斤」。(第十八則「洞山三斤」)
(註)洞山=洞山守初。910~990年、唐代の禅僧。麻三斤=衣一肩が作れる麻糸、一斤=六〇〇グラム。
この問答では「仏とは何か」が問われているのですが、「三斤の麻」がそれだというのでは決してありません。
「麻三斤」という対象と分れず一つになった(主客合一、純粋経験)ところが仏の現前であると示しているのです。
次の④も同類の公案です。
④趙州、因みに僧問う、「如何なるか是れ祖師西来の意」。州云く、「庭前の柏子」。(第三十七則「庭前柏樹」)
(註)祖師西来の意=「達磨がインドからやってきた意趣はなにか」という禅者の常套的質問。しかし、これは歴史上のことを問うているのではなく、禅の根本義を問う一句である。庭前=庭の前ではない、前はこの場合、まのあたりの意。柏樹子=子は助辞。河北の趙州には柏の樹木が多いという。日本の柏とは異なる常緑樹。
「物となって見る」の場合、「物となる」ということが大切なのであって、「見る」は五感の一つ場合の例にすぎません。
他に「聞・嗅・味・触」の場合であったもかまわないわけです。
「物となって聞く」の例を、『碧巌録』から挙げておきましょう(第四十六則「鏡清雨滴声」)。
「挙す。鏡清、僧に問う、「門外は何の声ぞ」。僧云く、「雨滴声」。清云く、「衆生転倒、己に迷うて物を逐う」」(人はみな間違っておる、有りもしない自己を立て―これは迷い―、それを中心にして外物を追い求めておる)。
道元も述べています。
「自己を運びて万物を修証するは迷いなり、万物すすみて自己を修証するは悟りなり」と。
これは純粋経験こそが真実在の現成の場であることを言っているのです。
(Ⅲ)「物となって考える」
⑤不思善、不思悪、正与麼の時、那箇か是れ明上座が本来の面目。(第二十三則「不思善悪」)
(註)明上座=蒙山惠明、生没年不詳。上座=僧侶に対する敬称。
これは第二十三則の話から必要な箇所だけを抜き出したものです。
さて問いは、「善も思わず、悪も思わない、まさにそうした時の、お前さんの本来の姿はどのようなものであるか」というものです。
「善も思わず、悪も思わず」ということは「何も思うな、何も考えるな」、別の言いかたをすると、「物となれ、物となれ」ということです。
そして、そのことをさらに言い換えれば、この公案そのものになれ、この公案を純粋に経験せよ、ということです。
⑥南泉、因みに趙州問う、「如何なるか是れ道」。泉云く、「平常心(びょうじょうしん)是れ道」。州云く、「還って趣向すべきや(やはり努力してそれに向うべきでしょうか)」。泉云く、「向わんと擬すれば即ち乖く(向かおうとすると逆にそれてしまう)」。州云く、「擬せずんば、争(いか)でか是れ道なることを知らん」。泉云く、「道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶お太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非す可けんや」。州、言下に頓悟す。(第十九則「平常是道」)
(註)南泉=南泉普願、748~834年、唐代の禅僧。趣向=目的を定めて心を向けうこと。妄覚=妄想。無記=白紙。太虚の廓然として=大空の広くあいている様。洞豁=カラッと開けてる様。是非する=ああだこうだと詮索すること。
私たちは毎日、「ああだ、いやこうだ」、「ああでもない、こうでもない」といろいろ考えをめぐらせながら生活しています。
こうして迷いの道を歩んでいることになります。
これに対して、平常心とはそうした造作のない自然のままの心を言います。
知をはたらかせ物について考えるのではなく――これは主客分裂した分別の立場――、物となって考えよ――これは主客未分の無分別の分別の立場――、禅はそれが真実の生きる道だと教えます。
(Ⅳ)「物となって行う」
⑦倶胝和尚、凡そ詰問有れば、唯だ一指を挙す。(第三則「倶胝竪指」)
(註)俱胝(ぐてい)=唐代の禅者、生没年不詳。
この場合、俱胝和尚のたてた指の方に問題があるのではありません。
そうではなく、和尚が指という物をたてる行いと一つになったところが重要なのです。
このとき、そこにおいては、和尚(主)もなければ指(客)もない、純粋経験そのものであって、そこに一切が――したがって僧の詰問も――吸収掃蕩されてしまうのです。
俱胝和尚のたてた指は無限です。
和尚はそれを師匠の天龍和尚からさずかったのですが、「生涯それを使いつくすことができなかった」と述懐しています。
⑧世尊、昔、霊山会上に在って花を拈(ねん)じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟(た)だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、「・・・摩訶迦葉に付嘱す」。(第六則「世尊拈花」)
(註)霊山会上に在って=霊鷲山で説法された時に。迦葉尊者=摩訶迦葉の略。尊者は敬称。仏の十大弟子の一人。不嘱=佛祖の大法を伝えて、後の人に対してその護持を依嘱すること。伝法。
この公案の眼のつけどころは、世尊が口を使ってではなく、一本の花を摘まみ上げるという行為をとおして説法されたというところです。
真実の法は禅定(純粋経験)の当体として現成するのです。
大衆にはそのことが分かりませんでした。
しかし、摩訶迦葉はそれを承知していましたので、世尊の行為を見てすぐにうなづくことができたのです。
世尊が摩訶迦葉を自分の後継者としたのはそのためでした。
⑨世尊、因みに外道問う、「有言を問わず、無言を問わず」。世尊拠座す。(第三十二則「外道問仏」)、、
(註)外道=インドで仏教以外の宗教を信奉する人。六師外道。有言を問わず、無言を問わず=言葉でもなく沈黙でもないものは何ですか。拠座す=ちょっと坐りなおすこと。
これも前の⑨と同じです。
外道の質問は要するに、言葉を離れて真実の法を示めせ、というものです。
そこで世尊はちょっと尻を動かされたわけですが、この行いは禅定からの行為として、真法の露呈でした。
外道はそのことを了解したのでした。
この外道、外道ではありますが、なかなかの人物であります。
(Ⅴ)真実の自己
⑩東山演師祖云く、「釈迦弥勒は猶お是れ他の奴。且く道え、他は是れ阿誰(あた)ぞ」(第四十五則「他是阿誰」)
(註)東山演師祖=東山演は五祖法演 ?―1104年、北宋の禅僧。師祖は元来、師の師の意。ここでは法演が多くの祖師方の中でも特に際立った祖師であったという意味で用いられている。弥勒=五六億七千万年に下生するとされる菩薩。「他」は口語第三人称代名詞。彼、彼女、それ。単複両用。禅ではこれによって真実の自己を指す。「阿誰」=阿は親しみを表わす接頭語。「阿爺」(父を親しんでいう口語)、「阿母」。
「釈迦」とか「弥勒」とかは如何に偉大な仏であっても、それら自体は他のものから区別するために当人に付された名前(一種の記号)にすぎません。
言ってみれば、本体を飾る衣装のようなものです。
衣装はなんとでも取り替えることができます。
ところが本体は取り替えることができないのです。
それでは、私たちの存在において取り替えることのできない本体とは、一体何なのでしょうか(「他は是れ阿誰ぞ」)。
仏教ではそれは「無」であると教えます。
私たちの自己は実のところ無(我無し、無我)であり、臨済禅師はそういう私たちのことを「無位の(いかなる名称にもしばられない)真人」と呼びました。
詩人の新川和江は「私を名付けないで」と叫んでいます(「わたしを束ねないで」)。
哲学ではそういう自己を「無相の自己」、またそういう主体を「無的主体」と言ったりしています。
ですから、たとえ釈迦や弥勒であっても、かれらのいわば主人公は「無」ですから、現象としての釈迦や弥勒はその奴婢ということになります。
ところが私たちは残念ながらそのことを忘れて日々を送っています。
⑪国師、三たび侍者を喚ぶ。侍者三たび応ず。国師曰く、「将に謂(おも)えり、吾れ汝に辜負(こぶ)すと。元来却って是れ、汝吾れに辜負す」。(第十七則「国師三喚」)
(註)国師=南陽慧忠 ?1775年、唐代の禅僧。侍者=住持の給仕・補佐をする役(同じ意味の言葉に「隠侍」「三応」)。ここでの侍者は耽源応真(生没年不詳)。辜負す=人の期待を裏切ること。「なんだ、今まで私のせいでお前さんが悟れないものとばかり思っていたが、もともとお前さんの方が私に背いて悟れなかったのか」。
国師は用事があるごとに弟子の耽源の名を呼びました。
しかし、「耽源」は名前にすぎないのであって、当人そのものを指すのではありません。
そのことに気づいていたのであれば、耽源は「私は耽源ではございません」とでも言って、師匠に一撃をくらわすべきでした。
ところが実際はそうではなく、まんまと師匠の 誘いにのったものですから、「お前さんはせっかくの私の教えにそむいている」と難じられるはめになったのです。
⑫瑞巌彦和尚、毎日自ら「主人公」と喚び、復た自ら応諾す。乃ち云く、「惺惺着。諾。他日異日、人の瞞を受くること莫れ。諾諾」。(第十二則「巖喚主人」)
(註)瑞巌彦和尚=瑞巌師彦、生没年不詳、唐代の禅者。惺惺着=「惺」は道理をさとる、心が落ち着いて静か、の意。はっきりしていること。「着」は命令の助詞。
これは日ごろ真の自己のことを忘れて、のほほんと過ごしている私たちに対す る警告の話として受け取りたいと思います。
最後に締めくくりとして『臨済録』から一句引用しておきたいと思います。
「随処に主と作れば、立処皆な真なり」。(『臨済録』示衆)