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禅と生老病死 北野大雲

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禅と生老病死

 

北野大雲

 

生まれること、老いること、病むこと、死ぬことは、人生において避けることのできない四つの苦しみとして、仏教の根本問題とされてきた。したがってまた、このことは、仏教が中国に入ってから盛んとなった禅においても事情は同じである。と言うよりはむしろ、仏教諸派のなかで、生老病死する生命からの透脱を最も精鋭的に追求してきたのは禅であったと言えるかもしれない。

 

生老病死が仏教の根本問題になったのは、仏教の教祖である釈尊の青年時代の経験に起因する。若き釈尊は生老病死の四苦の問題に苦悩し、何としてもその苦しみから抜け出したいと願った。そうして到達したのが坐禅という方法による、それらからの解放であった。

 

坐禅とは調身・調息・調心を通して三昧(禅定)あるいは無心の境地に入り、その境地において、すべての囚われ(執着)から自由になろうとする行である。三昧は仏教の核心であり、どの宗派においても三昧の境地をめざす修練が必須となっている。禅でその中心となるのが坐禅であるのだが、浄土宗ではそれが念仏になるといった具合である。私の考えでは、このように、仏教は三昧教と言ってよい。

 

釈尊は坐禅を通して、生老病死の四苦について驚くべき悟りに到達した。それは、存在するもの一切は「空」(禅では多くの場合に「無」という言葉を使用する)であるというものであった。したがって、生老病死ももちろん本来「無い」。生老病死の苦に悩むのは、もともと「無いもの」を「有るもの」と考えて、その考えに囚われているからに他ならない。仏教はこう教えるのである。

 

ここで「空」(あるいは「無」)について少し付言しておこう。「空」は本来、言葉では説明できない。なぜなら「空」とは何も無いものだからである。しかし、それを敢えて言葉で説明すれば、少し矛盾したように聞こえるかもしれないが、次のようになる。「空」は虚無と同じではない。すなわち、有るものを全く認めないという意味ではない。有るものの一部を承認する。が、その有るものは自立的でなく、それを生じさせるもの(原因)やそれを生じさせる条件(縁)によって、仮に存在(縁起)しているに過ぎない。縁が尽きれば消滅してしまうような一時的な存在なのである。言葉を換えれば、すべての有るものは常に死滅(無)の相を帯びた危うい存在なのである。だから、それはたとえ有るものに見えても、本来的には無いものに等しい。この意味で「有るもの」の本質は「空」であり「無」である。

 

このことを私たちの身体について言えば、私たちの身体とは、これを構成する諸要素が上に述べたような因と縁(合わせて因縁という)によって、たまたま仮に調和的に合している(因縁仮和合と言う)形体にすぎない。その調和が損なわれたなら(例えば癌細胞が出来たり、新型ウィルスに侵されたりして)、それはもともと「仮」和合であったのだから、直ちにその形態を解消して死に至る(空無に帰する)ということにもなるのである。日本の一休宗純禅師(1394-1481)は、その様を次のような道歌に詠みこんでいる。

 

「引き寄せて結べば柴の庵かな とくればもとの野原なりけり」。

 

一切は「空」(「無」)であるということに関して、禅者がしばしば唱える「魔訶般若波羅蜜多心経」という経典には、次のような言葉が見いだされる。

 

「・・・五蘊皆空・・・諸法空相、不生不滅・・・無老死・・・」。

 

「五蘊」とは、人間を成り立たせている五つの要素、すなわち、色(肉体)、受(感受性)、想(想像力)、行(意志)、識(意識)を言い、「五蘊皆空」とはそれらの要素がすべて本来「空」である、したがって人間存在は全体として「空」であるとの意である。また「諸法」の「法」は「物」のことで、「諸法空相」とは、すべての物は「空」という性質を具えていると言うのである。「不生不滅」、人間に即して言えば、私たちは生まれもしないし死にもしない、だから「無老死」である。「魔訶般若波羅密多心経」はこのように空理論の神髄を展開している経典である。

 

人間存在を含め、すべての存在は縁起している。人生とは、縁起しながら生滅を繰り返す夢幻泡影のようなものである。生も夢、老も病も夢、死もまた夢のごとき、実体なき「仮」の姿にすぎない。この観をなすことが、生老病死の苦から私たちを解き放つ智慧だと仏教は教えている。このような仏教思想は現代の科学によっても支持されている。現在、活躍中の生物学者・福岡伸一は彼の言う「動的平衡」の生命観に立って、生命とは「絶えず自らを壊しつつ、常に作り替えて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである」、と生命を定義している。これはまさに仏教の諸法無常の空理論を現代科学の言葉に言い換えたものと言えるだろう。

 

さて、上のような説明を聞いて、本当に安心できる人は少ないであろう、と思う。そこで、上で述べられたことを本当に納得できるようにするためには、どうしても私たちの一人一人が釈尊に立ち帰って、釈尊の実践したように坐禅を通して、「空」を自分の体で会得する必要が出てくる。仏教において修行はなくてはならない最重要事である。

 

そこで、ここに禅に参じようとする初心者のために、坐禅の仕方を坐の組み方を中心として簡単に説明しておこう。(詳しくは専門書を参照)

 

  • 調身について。まず足の組み方であるが、片方の足を他方の脚の付け根につけるようにして上げ、次に下になっている方の足を上になっている方の脚の付け根まであげて坐る(この坐法を結跏趺坐と言う)。これができない場合には、どちらか一方の足を他方の脚の付け根につけて坐る(半跏趺坐と言う)。

 

背筋を伸ばす(このことは非常に大切である)。顎を引く。眼は開いたまま、あるいは半眼にして2,3メートル先に落とす。手は一方の手で他方の手を軽く握って自然に落ちるところに落とす。

 

  • 調息について。まず大きく長く息を吐きながら、心の中で「ひとつ」と数える。同じやり方で順に「ふたつ」「みっつ」というように「とう」まで数えてゆく。「とう」まで数えることができたら再び「ひとつ」から始める。このようにして数に集中することで三昧(禅定)の心を養う。この行法を数息観と呼んでいる。

 

  • 調心について。数息観は簡単なようで実際はなかなかうまくやれないものである。数を数えている途中、雑念(妄想)が入り、つい数を数えることを忘れてしまいがちになる。そのような時には、直ちに最初の「ひとつ」から出発しなおさなければならない。最初のうちは調教師のごとく自らの心を自覚的に調教することに努めなければならない。

 

数息観に習熟し三昧の境地が深まれば、そこからやがて生老病死の苦をも真に超脱することのできる悟りの智慧が湧出してくるであろう。

 

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