第一話 「掃除の歌」
長岡禅塾のことについて「掃除の歌」と題した詩が残されている。
その作者については今のところは あえて「詠み人知らず」ということにしておこう。
詩はつぎのように始まる。
禅塾の庭は綺麗だな
これと云って何んの変哲もないくせに
いついっても掃いてある
何時、誰れが
問えども答えぬ暗昏々
黙照禅の庭なのか
いや、いやそうではなさそうだ
(「黙照禅」は言うまでもなく曹洞宗の禅を意味する。以下に見られるように、詩中において禅宗五家に触れるところの詩の作者は禅の世界にも通じた人のようじゃ。)
詩はさらにつづく。
パン屋の親爺もおばさんも
来る人々が感心し
心の奥まで清まると
これは実際の話である。
先日、「パン屋」でなく、犬をつれてよく禅塾のまわりを散歩するという「うどん屋」の若主人から同じような話を聞いたことがある。
そのひとは「ちょっと近寄りがたい感じですね」ともいっていた。
わたし自身の経験を語らせてもらおう。
まだ禅塾と何の関係もなかったころの話である。
当時わたしは北摂に住んでいて、ある日、陽気にさそわれ阪急電車に乗りふらりと長岡天神駅で下車した。
足はそれとなく長岡天満宮の方にむかい、辺りを散策しているうちに(いまから思えば)長岡禅塾の前に迷いでたのである。
あのとき、周辺の気配が醸しだしていた一種不思議な感じをいまも忘れることができない。
ドイツの宗教学者ルドルフ・オットーの言葉を借りれば「ヌミノーゼ」の感得、すなわち「魅惑するもの」と「畏怖させるもの」との複合感情に襲われたのであった。
わたしは現在、禅塾に住まっているのでそれほどでもないが、外からやってくるひとの多くはみな同じような感じをいだくに違いない。
詩のつづきを読もう。
「心の奥まで清まると」の次である。
口に出して言うからは
言わせにゃならぬその訳が
庭の小石や小枝にも
多分あるに相違ない
禅宗寺院はどこもかしこも綺麗に掃除がされていて気持ちがいい。
それは禅徒子が中峰和尚以来、修行の一環としてその座右銘のひとつ「常に苕箒を携えて堂舎の塵を掃え」を忠実に実践してきているためであろうか。
しかしながら同じ禅宗の寺院であってもその綺麗さに微妙な違いが見られる。
たとえば観光を主とする寺院などでは確かに「魅惑するもの」の要素はあるが、「畏怖させるもの」の感じられることが少ないようだ。
「畏怖させるもの」は行の厳しさの反射であるが、観光寺院にそういうものの欠けていることは、見るひとが見ればわかるものである。
たかが掃除と言うことなかれ、掃除おそるべしである。
専門道場などの、主幹をむき出させ、深く短く刈り込まれた垣根や植え込みなどは「皮膚脱落して唯だ一真実のみ有り」という語そのものを表現しているかのようではないか。
それらはそのままその道場の修行底を露現している。
さて、「掃除の歌」は禅塾の庭をみる人をして「心の奥まで清まると」言わしめる訳についてこう歌う。
こうしてみればこの庭は
機(き)を蔵して言句を出す雲門の機(はたらき)か
言句を蔵して機(き)を出す臨済の機(はたらき)か
(宗門のことを織り込み、しかも雲門宗を出してくるこの作者、只者ではなさそうである)。
しかし、作者はすぐに「いやいやそうではござるまい」と雲門・臨済ともに否定して、眼を別所に転ずる。
あれあれごらん、あれごらん
梅の小枝にとまってる
小鳥は何んにも知らないで
けろりんかんとすましてる
さてさてそれでは法眼宗でござったか
そしてこの後すぐに「うん、なるほどと肯いて……」とつづくのである。
してみると、ここまでのかぎり禅塾の庭は法眼の宗風となにか関係がありそうにも見えるが、如何……。
さてここで、作者は庭のどのような様子を見て、それを「法眼宗でござったか」といい、「なるほどと肯い」たのであろうか、などと詮索すればもう自救不了であろう。
そんなことをしている間に肝心の小鳥をとり逃してしまうことになる。
そうではなく、こちらも「けろりんかん」と「法眼宗」となりきるのである。
これ小鳥の「ピイー」と同か不同か。
ぐずぐず言っている間に小鳥をとり逃してしまうぞ!それ見ろ、小鳥はもういずこかへ飛び去ってしまったぞ、と詩はつづく。
うん、なるほどと肯いて
元の小枝をながむれば
もはや小鳥は何処へやら
全く馬鹿にしてござる
庭自体に法眼宗もへったくれもない。
もしあるとすれば、そんなものは後から勝手に考えだされたものにすぎない。
小鳥はそんな人間をあざ笑って飛び去ってしまったのである。
では、あらためて問う。「心の奥まで清まる」その訳とは何か。
「掃除の歌」は、そこにあたかも一陣の清風が吹いてきて、そのことを教えてくれるという。
松吹く風がさらさらと
右のお耳に言いました
ここのところが知りたくば
箒を持ってもう一度
塾のお庭を掃きなさい
禅の世界ではぐずぐず言わずに坐っとけ、などとよく言う。
禅は理屈ではないからである。
知るというのでも実地に知るのでなければ本当に知ったことにならない。
自分が実際に箒を手にして庭を掃いてみて、初めて真に「心の奥まで清まる」ことを知るのである。
それが本当の清さの知り方である。
教育の現場に作務を導入した禅教育者片岡仁志は生徒たちに顔が映るくらい、廊下をピカピカに磨かせた。
それは廊下磨きを通じて、生徒たちの心を自然のうちに浄化するすべを自らの体験から熟知していたからに違いない。
松風のささやきは、だから禅の道への最初の誘いである。
しかし松風は再びもう一方の耳に語りかける。
そして、「掃除の歌」は最後にふたたび雲門をだして全四十八行詩を締めくくるのである。
左の耳にも言いました
「雲門さまが言ったげな
庵内の人、何んによってか庵外の事を知らざる」と
雲門のこの言葉は乾峯三種(病)にでてくる、詳しくは『葛藤集』を参照。
(「雲門天子」と呼ばれたその宗風がお気に入りのようであるこの作者、もしかしてご自身も高貴な家の出の、なかなかレベルの高いお方とお見受けする)。
庵内の人はどうして庵外の事を知らないのか。
庵内の人は庵内にいながら庵内になりきっているからである。
内になりきっているから内はない。
内がないから外もない。
すなわち、内外打成一片の三昧生活である。
では松風が左の耳に伝えようとしたことは何であったのか。
前段で、心の奥まで清まるその訳を知ろうとするなら実際に箒をもって掃いてみるがよいと実践の道を指示した松風は、しかしそれはなり切った行為にまで高められたものでなければならないと言うのであろう。
実地の知とは、なり切ったその当体の自覚である。
思うに生死の根源は、一方から見れば無礙の作き(はたらき)を本質とする。
生死そのことがその一様相にすぎない。
禅宗でいうところの作務もまた本来そういう性格のものであるはずである。
だから箒をもって庭を掃く場合でも、その純粋の行いは根源からの行為として、小鳥や松風の声も無礙の音楽として心地よく聞こえてくる遊戯となる。
しかしながら、そういう境地のなかなか手に入りにくいこともまた事実ではある。
「庵内の人、庵外の事を知らざる」は、分別の事柄に堕することとなる。
あるとき、庭を掃いていると、ひとりの婦人が外からしきりと内側の様子を窺っていた。
庵外の人、何んによってか庵内の事を知らざる、である。
いや、かの婦人は「知っていた」というべきかもしれない。
隙間なく掃き整えられたたたずまいから、彼女は禅塾の内側を推知したのである。
内もおそらく綺麗に違いない、と。
近づいて要件をたずねてみると、案の定、なかを見せてもらえないかとのことであった。
が、当塾はそのような施設ではないことを言って丁重にお断りした。
別段イケズをしたわけではない。
そのような場合、臨済系の専門道場ならどこでも同じように対処するだろう。
それどころか、間違って一歩でも道場内に足を踏み入れようものなら、いきなりどやされるかもしれないのである。
禅の道場は行ずるところであっても見せるところではない。
長岡禅塾は大学に通う一般の学生を対象としている点でいわゆる専門の道場とは異なるが、それに準ずる規矩もある禅の道場であるのである。
以上「掃除の歌」を借用して禅塾を紹介したつもりである。
「詩人にあらずんば詩を献ずることなかれ」と言われる。
この詩がはたして良き「詩人」に出会ったかどうかはしばらくおくとして、ただここで言いたかったことは、禅塾のことは、外から垣根の刈込みを見ていただくだけでも大切なところは大よそ分かっていただけますよ、ということであった。
最後に「掃除の歌」の作者は現塾長である半頭大雅老大師の若き頃の作品であったことを明かしておこう。
(半頭大雅老大師は平成28年12月11日に遷化されました)
*「掃除の歌」は『森本省念の世界』(半頭大雅 春秋社)P.109~P.112に掲載。