長岡禅塾では、年二回(7月と12月)の大摂心の時の他に、ほぼ一年を通して毎週火曜日の夕7時40分から9時まで、当塾の図書室で老師の提唱が行われてきている。
これには塾生の他、通参の居士や、特別に老師の許可を得たものらが参加している。
私自身は通参の居士としても二十数年間(このうち一年間は塾生として)浅井義宣老師の提唱を拝聴させてもらってきた。
その間、いろいろの話を伺ってきたのであるが、その中でもっとも衝撃的で、かつ長く私の肚に落ちず、消化不良をおこしていた話がある。
それは森本省念老師の言葉として紹介されたものであるが、「戦争している時が平和の真っ只中にいることなのだ」という、仰天するようなお説である。
もちろん、戦争のないことは誰しも希求するところである。
しかし人類史上において戦争のなかった時代はないし、現に今も世界のあちらこちらで紛争が起こっている(そして、人間が肉体を具えた存在である以上、将来にわたっても戦争はなくならないであろう)。
それは幸い日本のことではないではないかと言うなら、グローバル時代と言われる今の時代において、それは余りにも近視眼的な見方と言わざるを得ないだろう。
しかし、その主張に百歩譲ったとしても、一見平和に見えるわれわれの日常生活が、生存競争という名の決して小さくない戦争の連続であることをご存じないのであろうか。
受験戦争しかり、バーゲンセールしかり、私などサラリーマン生活をしていたとき、満員の通勤電車で押し合いへし合いしているさなか、運悪く革靴の上から女性のヒールで踏まれて、思わず顔をしかめながら、「ああ、俺はいま生存競争の、戦争の真っ只中なのだなぁ」と思ったりしたものである。
ドイツの哲学者カール・ヤスパースが闘争(戦争)を人間の直面する限界状況(避けようとして避けることのできない状況)の一つに数え上げているのはさすがに慧眼というべきである。
(少し理屈を述べれば、ヤスパースの限界状況説は、釈尊の苦諦説をやや客体的に見たものと言えようか。)
そういうわけで、戦争(闘争)が不可避であり、したがってそこから生まれる諸々の苦しみからも逃れることができないとすれば、どうすればよいのか。
苦からの脱却、逆にいえば安心(あんじん)の獲得、これが釈尊の一大問題であった。
そして、その解決法として発見されたのが禅定(三昧)という方法である。
禅定とは、対象と一つになることである。
具体的な話をすれば、苦しい時には苦しいことに成り切る。
釈尊はそこにのみ究極的にして絶対的な安心があると覚したのである。
禅はまさにその禅定に立脚地を定めている。
私たちはいつも浅井老師から先ず禅定に入るように諭されてきている。
さて、そういうことになると、森本老師の先ほどの話はどういうことになるのだろうか。
「戦争している時が平和の真っ只中」というのは、老師の場合、いったん戦争となった以上は、「わしやったら、アメリカ軍が攻めてきたら、尻まくりして竹やりもって突撃や」と言われたように、自己が戦いそのものに成り切ることである。
その時には戦争していることも、戦争している苦しみもない筈である。
すなわち、絶対の平和である。
絶対というのは、戦争と区別された、この意味で「相対的」な平和ではないということである。
つまり森本老師は戦中の苦を例にあげて、その仏教的、とくに禅的解決法を示されたわけである。
これと同じような話が伝えられている。
ある人が森本老師に、「現在、仏教は低迷しているように思えますが」と問うたところ、
老師いわく、「さに非ず、わしの腹の中は朝から晩まで三毒(貪、瞋、癡)の波がのたうちまわっていますねん。これが仏法の盛んな証拠と違いまっか」と。
ここには、三毒に成り切ることによる、その苦しみからの解脱が説かれている。
そしてその実践こそが仏教の盛んなる証しであると言うのである。
何か語録中の問答を見ているようで痛快である。
「戦争している時が平和の真っ只中にいることだ」という見解のうちには、平和について考える場合、一般にそうされているように、戦争と対立させ、それから区別して、戦争のないのが平和であると考えるのは仏教的な考えではないということが含意されている。
先に仏教(禅)は対象と一つになること(一如性)に立脚すると述べたが、別の言い方をすれば、仏教は二元対立的(分別的)思考法を排撃するということである。
だから「戦争と平和」ではなく、むしろ「戦争即平和」が仏教本来の考え方だということになる。
すなわち仏教の論理は「即」の論理である(そして、この論理を支持するのは他ならぬ禅定である)。
仏教はこの論理を表明する言葉であふれている。
例えば、般若心経では「色即是空、空即是色」と言われ、他ではもう少し具体的に「煩悩即菩提」「生死即涅槃」「娑婆即寂光土」(「當處即ち蓮華國」)などとも言われる。
(「即」が隠れている場合もある。例えば、雲門の「日々是好日」は順境時のことを言っていると言うよりはむしろ、七転八倒するわれわれの日々が――この方が現実に近いであろう――即ち好日だというのである。なぜか。)
ところで先ほどの「即」についてであるが、「即」は言うまでもなく「そのままで」ということである。
だから例えば「娑婆即寂光土」とは、この苦悩に充ちた現実の世界が「そのままで」、
言い換えれば、如何ともなしえない現実の苦悩の真っ只中にいることがすなわち仏国土にいることだという意味である。
この点で、仏教は現実否定の、理想を前方に掲げて、それを追求せんとする理想主義では断じてない。
むしろ現実そのものに徹底し、徹底することによって現実を脱落(超脱)せんとする絶対現実主義とも言うべき立場である。
このことを森本老師は「ザインからゾレンへ、ではなく、ザインからザインへ」と表現され、浅井老師はこのことを何度も聞かされたと述べられていた。
(「ザイン」は「存在」、「ゾレン」は「当為」を意味する哲学の術語である。簡単に言えば、前者は「現実」、後者は「理想」の意となろう。哲学出身であった森本老師らしい用語法である。)
これまで森本老師の、戦時に対する禅的な態度の取り方についての話をしてきたのであるが、悲惨なのは戦争の時ばかりではない。
近年、とくに自然災害――その実、その多くは人災だと言われている――による惨事が目立つ。
なかでも東日本大震災のことはわれわれの記憶から消えることはないだろう。
震災に遭遇したときの禅僧の言葉としては、文政11年(1828年)の新潟三条地震に際して、良寛が知人の山田杜と皐こうに出した手紙がよく知られている。
その中で良寛は「地震は信に大変に候 野僧草庵は何事なく親類中死人もなくめで度存候」と書きはじめ、後段で、よく知られた、「しかし災難に逢ふ時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死がよく候 是はこれ災難をのがるヽ妙法にて候」の文字を添えて、一文を終えている。
災難のときは災難だけ、死のときは死だけに成り切って、そうやって災難や死をも、抜、け、る、(脱落する)。
それが災難や死を超脱する「妙法」だと良寛は教えるのである。
これ、先に述べた森本老師の言うところと同工異曲である。
それでは、東日本大震災の後、各寺院ではその惨事に関連してどのような話がなされたのであろうか。
禅塾では禅会の提唱で、浅井老師が河野霧海老師(南針軒)の次の偈頌を参会者に示された。
(しかし、それは客観的に何か資料のようなものとして提示されたのではなく、その時の老師の境涯を南針軒の頌に託して示されたのだと思う。)
関東震災惨中惨 関東の震災 惨中の惨
何譲三災壊劫時 何ぞ譲らん 三災壊劫の時
畢竟見来無敗処 畢竟 見来れば 敗処なし
存亡一片只這之 存亡一片 只 這これ之これ
これは関東大震災(1923、大正12年9月)の時の法語だそうである。
浅井老師はこの偈頌の大意について簡単に説明された後、禅が今回の震災に対して採るべき態度がここに示唆されていると静かに言われた。
少し余談になるが、河野霧海老師の「存亡一片只這之」と似たような境地を陶芸家の河井寛次郎が語っている。
これは終戦頃の話である。
そのころ寛治郎は、いつ焼け野が原になるかも知れない京都の街をしっかり自分の眼に焼き付けておこうと思って、毎日のように東山の高みに上っていた。
ある日のこと、いつものように街を見下ろしていると、突然ひとつの思いに打たれたという。
「なあんだ、なあんだ、何という事なのだ。これでいいのではないか。これでいいんだ。これでいいんだ。焼かれようが殺されようが、それでいいのだ。――それでそのまま調和なのだ」(『火の誓い』)。
ここに述べられている「これでいいんだ。これでいいんだ。焼かれようが殺されようが、それでいいのだ」という言い方は、「存亡一片只這之」と似ている。
が、寛次郎の表現が静観的な表白に止まっているのに対して、河野老師の「存亡一片這之」は禅定の智慧の表出である。
そこには(禅定の)力が感じられるのである。
どうであろうか。
浅井老師はさらにこう付け加えられた。
「河野老師が開枕後、虎渓山僧堂の裏山で夜坐をしているとき、野兎がやってきて老師の膝にかけた毛布の上で安眠した」と。
尚ほ愧づ 機心在るを
山禽 驚いて 却飛す
伊藤東涯「秋郊閑望」
動物はその優れた直観力で人の内的動静を察知する。
こちらに少しでも邪心があれば、さっと逃げ出すのである。
野兎が人間の膝の上で安眠したというのは、その人が余ほど深い禅定に入っていたという証拠である。
河野老師の右の偈頌はそういう人の作として味わうべきである。
森本老師や良寛の場合においてもまた然りである。
千里同風とはまさにこういうことである。