見えぬものでも あるんだよ(令和3年11月3日)
ツワブキ(長岡禅塾)
昔、仏教学を専攻するひとりの新入生が、
自分は「アラヤシキ(阿頼耶識)」を勉強するために、
仏教学科を選んだのだと言うのを聞いたことがある。
まだ高校を出たばかりなのに、
ずいぶん特殊なテーマに興味をもつ学生もいるものだと、
その時はずいぶんと感心させられたことである。
仏教心理学として西暦五世紀頃に、
インドの無著と世親によって大成された
唯識論(唯識仏教)という学問体系がある。
唯識論とは「唯、識のみ」ということで、
すべての事柄を心の要素に還元し、
心の問題として考えようとする仏教理論である。
唯識論は人間の心を八層(八識)に分けて考えるのであるが、
アラヤシキ(阿頼耶識)はそれらの根底をなしていて、
それゆえもっとも重要な識(=心)である。
アラヤシキの重要性について述べる前に、
八識の構成について見ておく必要がある。
それらは底辺の方から順に、
最深層の心である、第八アラヤシキ(阿頼耶識)、次に、第七マナシキ(末那識)、
それから表層の心である第六意識と最上層の前五識に分かれる。
第七マナシキは自己愛の根源をなす心、第六意識はいわゆる普通の心、
前五識は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識、の五識である。
さて、アラヤシキの重要性についてであるが、
私たちは通常、普段の第六意識を中心に人間の心を考えている。
しかし、唯識では第六意識のみならず、第七末那識、前五識をふくめ、
すべてが第八アラヤシキの転じたもの(転識)であって、
本当の心(本識)はアラヤシキである。
だから本当の自己も私たちには見えない深層のアラヤシキだということになる。
アラヤシキの重要性は他にもあって、
実際にはこれから述べることの方が大切である。
アラヤシキの「アラヤ」は、サンスクリット語「アーラヤ」で、「蔵」を意味する。
何を蔵しているのかと言えば、私たちの日常の行為のいちいちをデータ化し、
「種子(しゅうじ)」という形で貯蔵されていると考えられている。
しかも、アラヤシキに貯えられた種子がつぎの行為の原因になる。
図式化すると、①今の行為の結果→②種子(次の行為の原因)→③次の行為、となる。
そして、③が再び種子となって、さらに次の行為の原因となるという具合に、
行為→種子→行為、の過程が無限に繰り返される。
これが私たちの日常だと、唯識仏教は教えるのである。
このように毎日のいちいちの行為が
次の新たな行為の原因となるのだとすれば、
邪悪な行為はただちに次の行為に影響をおよぼして、
又もや邪悪な行為を引き起こすこととなる。
だから私たちは小さなことであっても、
よほど注意して行為をしなければならないことになる。
そこで「行為」についてであるが、
仏教ではそれを身・口・意の三業(さんごう)に分けて考えてきた。
すなわち、①身業(身体を使った行為)、②口業(口を用いた行為)、
そして、③「意業」(心のはたらき)の三である。「業」は「行為」のことである。
これらのうち、①の身業と②の口業は、その行為が外に現れる外的な行為であるから、
どうしても衆人の注意をひくことになる。
そこで人は衆人の手前、大抵の場合、自分の行為を多少なりとも制御し、
他人との摩擦を出来るだけ少なくしようと試みる。
しかし、③の意業は外から見られることはないので、
自分本位に好き勝手なことを考える場合が多い。
唯識の立場から言うと、ここに大きな落とし穴があるのである。
なぜなら、上で見たように、邪悪なことを思うという(内的な)行為が
ただちに種子となってアラヤシキに貯蔵され、
それが次の行為の原因となり、やがて外的な行為となって現れるからである。
私はこのことで『中庸』という本に出ている
「慎独」という言葉を思いだす。
『中庸』にいわく、
隠れたるより見(あら)わるるは莫く、
微かなるより顕(あら)わるるは莫し。
故に君子は独(どく)を慎しむなり。
訳:
隠しごとや微小なことほどかえって露見しやすいものだ。
そこで、君子は[いつも道を思って公明正大、あいまいな隠しごとなどは避けて]
内なる己れ自身を謹慎して修めるのである。(金谷治訳)
外から「見えぬ」からと言って、安心するのは禁物である。
「見えぬものでも」外から見えないだけで、
実際には「あるんだよ」。
油断大敵、日頃から用心するに如くはなし、である。
*「見えぬものでも あるんだよ」のフレーズは、テレビのコマーシャルでも使われています。金子みすずの詩「星とたんぽぽ」に出ています。
*名前を聞いただけでも難しそうな唯識論を分かりやすく説明している本に、多川俊映『俳句で学ぶ唯識 超入門』(春秋社、2021)があります。初心者向けの好著だと思います。