阪大生の感想文(令和4年7月27日)

 

ヒノキ(長岡禅塾)

 

以下の文章は、7月8日に来塾した大阪大学の学生諸君の、その時の感想文の一部ある。

読みやすくするため文章に書き改めたり省略した部分がある。

 

(その一)

長岡禅塾に行って坐禅を体験しました。

その日は少し蒸し暑く、坐禅をしていたら少し疲れました。

しかし、しばらく瞑想をして坐っていたら、

少し涼しくなってきて心に穏やかさを感じるようになりました。

 

禅堂は木造で、寮舎の長い廊下を通って行きます。

屋根は高く、外の廊下は二重になっています。

 

坐っていると、禅堂の外で蝉の鳴き声や、

木々の葉を通して吹く風の音が聞こえ、

かすかな木の香が匂ってきます。

 

窓の外はちょうどよい夏の緑で彩られています。

天上には太陽が真上に輝いています。

 

やがて私の心に

これまで長いあいだ忘れていた平和が訪れてきました。

禅堂の中はとても静かで人工的な音はなく、

静寂の世界を感じることができます。

 

徐々に世界がどんどん大きくなっていく気がしますし、

一万個の夏を迎えるくらいの大きさになっていく気がします。

また世界はだんだん小さくなっていき、

一見しただけの小ささになることもあります。

 

ゆっくりこのようなことを感じているうちに

坐禅体験は終わりました。

リラックスしたとき、足がしびれているように感じましたが、

その瞬間に体から余分な力が抜けて、

心地よい満足感を感じることができました。(留学生のL.J.さん)

 

 

(その二)

長岡禅塾で坐禅を体験し、

北野大雲老師から禅について説明していただき、

少しだけ禅について以前よりも理解できました。

 

禅は言葉で説明するものではなく、

我々が無心、無我となり、

自我を捨てて、物と一つに成ることです。

 

我々は人生においていろいろの事に従事しますが、

その際にそれらの事と一つに成らずに、

それらについて対象的に考えながら事を進めています。

 

そして、そうしていく中で事物にとらわれ振り回されて、

本当の自分を見失っていくのです。

それゆえに、忙しくても自分を見つめる時間をつくることを

大切にしようと考えております。

 

自分を無にし、心を空っぽの状態にさせ、

そこから仕事に入るのが

より効果的だと私は考えております。(留学生のT.L.さん)

 

 

(その三)

北野大雲老師の講話をお聞きして、

ある心理学者の「人間は本能を失った猿である」という考え方を思い出した。

「人間は幻想の中で生きている。他の動物と違い、

未熟児状況で生まれる人間は本能がなく、未熟児時代における教育や言葉、

社会規範に縛られる存在である」という主旨のものだ。

 

老師の言う二元論の呪縛は、

人間が教育や言葉、社会規範に縛られる存在であるということを意味するのだろう。

 

老師は「元[本来]に戻る」という言葉を使われたが、

これは、言葉や社会規範に縛られないものの見方ということだと思う。

 

しかし、これは、心理学者の言う本能を失った猿としての人間には困難であると思い、

老師に、「人間は、言葉や社会や歴史が前提の存在なので、

全くの無我を獲得するのは難しいのでは」、との質問を投げかけたが、

それに対し、「だから禅をやるんだ」という主旨の回答があった。

 

この回答を聞いた時、

自分自身、二元論に毒されていることを悟ると同時に、

禅の本質は、ここにあるのかと納得した。

 

つまり、禅がそうであるように実践が重要なのである。

頭で考えるだけでなく、実践しなければ何もわからない

という意味なのだと理解した。

 

これは、人生や仕事に活きる考え方だと思う。

自分で勝手に悩みや限界をつくって、

それに左右されることは、意味のないことだと感じた。(W.M.さん)

 

*<編者注> 本文中に「ある心理学者」とあるのは岸田秀のことである。岸田は「人間は本能の壊れた動物である」と言い、他の動物と違い「本来の意味での現実を見失った存在で」「幻想のなかに浮遊している」とする唯幻論を提唱している。

 

 

 

 

 

 

 

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