長岡禅塾の宗風 禅と念仏(15)
(令和4年8月17日)
ムクゲ(長岡禅塾近辺)
これまで「禅と念仏」というテーマで、
白隠、法燈国師、良寛、一休、正三、黙雷、
鈴木大拙、西田幾多郎、朝比奈宗源老師、浅井義宣老師の場合を
取りあげてきました。
そもそもこのシリーズが始まったのは森本省念老師の
「禅者は念仏がわからないといけない」
「念仏がわからない禅は本物ではない」
「真宗のわからない禅は本物ではない」
という言葉に触発されてのことでした。
(2020年12月23日の大雲好日日記115を参照)。
今回でこのシリーズを終るにあたり、
もう一度最初の森本老師の言葉にかえって、
留意すべき点について述べておきたいと思います。
森本老師は、禅者は、
念仏あるいは真宗が「わからないといけない」と言われるのですが、
この「わかる」というのは一体どういうことなのでしょうか。
これは念仏や真宗の一般的な意味が「わかる」ということではないでしょう。
そういうことなら辞典を引けば「わかる」ことです。
老師のいわれる「わかる」はそういうことではなく、
念仏や真宗の出てくる根源が、しかもそれは単に言葉上のことではなく、
自己の体験に即して「わかる」ということでなければならないと思います。
それにはまず自らがどこまでも凡夫であるという
自覚が先行しなければならなりません。
凡夫性の自覚がなければ、真宗、したがって、念仏への道は開けません。
つまり凡夫性の自覚によって初めてそれらが「わかる」ようになるのです。
森本老師も浅井老師も真宗(念仏)の「わかる」禅僧でした。
そのことは以下のような話を通して了解できます。
森本老師はある人との対話で、
「わしの腹の中は朝から晩まで三毒(貪、瞋、痴)の波が
のたうちまわっていますねん」と言い、
そしてそのことが「仏法の盛んな証拠」だと断じておられます。
(『禅 森本省念の世界』)。
わたしはこれまでそのことを禅的に解釈して、
煩悩即菩提(煩悩が本当の悟りである)の方向で理解してきました。
しかし今はそれを浄土真宗的に解釈して、
煩悩熾盛の凡夫に即して弥陀の誓願が立てられてあるのですから、
衆生の煩悩が激しくなればなるほど弥陀は大忙し(仏法が盛ん)なのだ
というふうに解釈すべきだと思うようになっています。
では浅井老師の場合はどうでしょうか。
浅井老師の言葉に、
「若い頃は<煩悩即菩提>という方向をきわめていくことも大切であるが、
修行していくうちに、決してそういうふうになれそうもない、という自覚が
出てくる」とあります。(『対話禅』)。
これは親鸞もかつて通った道であり、浄土真宗の宗旨に通じるところがあります。
こういう自己の体験をふまえた上で念仏や真宗に近づくことが、
それらについて本当に「わかる」ということです。
そういう意味では禅僧はつねに謙虚でなくてはなりません。
禅天魔にならぬように用心を怠ってはならなりません。
森本老師の教えはそういうことを私たちに教えています。
なお最後に一言しておきたいことがあります。
わたしが上に述べた言葉を聞いて、
それでは禅修行をしても無駄ではないかと
先回りして考える人がいるかもしれません。
そうではないのです。
森本老師の言葉も、浅井老師の言葉も、
それぞれ公案禅をやり通したとことから
出た言葉であることに注意をしてください。
そういうところを自らの体を使って実際に透過せず、
他の人の言った言葉の上っ面だけを鵜のみすれば、
禅も中途半端、念仏も中途半端で、
結局どっちつかずの宙ぶらりんのまま、
相変わらず散心の世界に迷惑しつづけることになります。
何事もそうですが、
最後までやり通すことが大切です。
途中で止めればもとの木阿弥で
それまでの努力が水泡に帰してしまいます。