(続)且座喫茶(お茶でも一杯、どうぞ)(令和5年8月30日)
百日紅(長岡禅塾)
前の日記(215)で猷禅玄達老師とお婆さんの話を採り上げましたが、
これとよく似た話が趙州従諗(じょうしゅう・じゅうしん、778-897)にも
あったことを思いだしましたので、それを今日は紹介してみたいと思います。
ある日、趙州が地を掃いていますと、ひとりの僧がやってきて尋ねます。
僧、「和尚さんは知徳の優れた立派なお坊さん(善知識)ですのに、
どうして塵がたまるのですか」
趙州、「外から飛んでくるんでなぁ」
僧、また問う、「清浄な伽藍にどうして塵があるのでしょうか」
趙州、「また塵が一つ飛んできたわい」
少し解説しますと、この僧は善知識や伽藍を塵とは
まったく関係のない清浄な存在として、
特別視(あるいは神聖視)しているようです。
しかし善知識や伽藍であっても世間に存在するものであってみれば、
そういうものの周りにも塵は集まります。
ただ、そうであっても善知識や伽藍は、
そういうものに穢らわされていない(清浄とはそこのことです)
という点が世間一般の人や物とことなるのです。
この僧はその辺の事情がのみ込めていなかったようです。
そこで趙州は一度ならず二度も続けてつまらない質問をする
その僧の問いを塵と見立てて、
「また塵が飛んできたわい」と言い放ったのでした。
うまいですね。
猷禅老師が飛んでくる蚊に託して婆さんを追い帰そうとしたのに対して、
趙州禅師は僧が提出した塵という言葉をうまく利用して、
やっかいな彼の問いを吹き飛ばしたのでした。