禅学の大家、必ずしも禅の大家にあらず(令和6年3月16日)

 

蝋梅(長岡禅塾)

 

『趙州録』にこのような話が出ている。

ある時、ひとりの仏教学者が禅の大家である趙州のところへやって来た。

そこで趙州はその人に「どのような学問を研究しているのか」とたずねた。

すると彼は、「仏教(禅)についてのことなら、自分を指導してくれた先生に聞かなくてもただちに講義ができます」と豪語した。それを聞いた趙州は手を上げて示して言った、「これを講ずることができますか」。学者は茫然として、何のことかわからなかった。それを見て趙州は言った、「たとえあなたが先生に聞かないでただちに講義ができたとしても、一人の仏教(禅)学者にすぎない。禅のことは、まだまだだ」。学者は言葉がなかった。

 

禅者とは、その人の普段の一挙手一投足が

深く禅によって浸透されていて、

平生の生活がそのまま禅の生活になっているような人のことである。

 

それに対して禅学者とは、

禅について学問的に研究する人のことであって、

必ずしも禅そのものを体得しているとはかぎらない。

 

今さらこんなことを日記に書くのは、

私としては憚れることなのであるが、

「禅と禅学」の区別について知らない人が

私の周辺にも多く見受けられるので、

ここで両者の違いについて、はっきりさせておきたいのである。

 

まず禅学についてであるが、

禅学はその名称の示すように「学問」の一分野である。

そこには禅宗史(地域的には中国・朝鮮半島・日本の、時代的には

中世・近世・近代の)、その他、禅思想研究や禅文化研究など、

多岐にわたっている。

 

禅学は「学問」の一分野であるから、

当然、他の学問と同様に「知性」の上に成立しており、

したがってまた科学的・実証的であろうとする。

 

ところが禅はそういう学問とは全く異質なのである。

それは普通の知性のおよぶところではない。

禅の特色は禅定(あるいは三昧、無心)の体験にあって、

それゆえに超知性的あるいは脱知性的である。

 

禅定とは知性のように、

物を向うに置いて(つまり対象的に)見るのではなくて、

物と一つになって見るのである。

「定」とはそういう心の状態をいうのである。

 

禅定は禅(そして全仏教)のいわば生命であり、

禅定を欠く禅はもはや禅ではなく、

似て非なる禅(野狐禅と言う)である。

 

禅について話す人は多いが、禅を畏(おそ)れる人は少ない。

 

 

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