「本当の自分に出会いたければ、長岡禅塾で修行しながら、学生生活を送ればいい!」 中村俊一
大学時代に軽音楽部に所属し、ダンスパーティで楽しく暮らしていた私は、あるときを境に無性に虚しくなった。
そんなときに、恩師に教えられたのが長岡禅塾だった。
逃げ出さない覚悟があるならと紹介された。
初めて足を踏み入れたときに、その凛とした美しさに息を飲んだ。
何かがここにはある。
そう直感した私は、興奮を覚えた。
しかし、臨済禅の規矩(規則)に則った正しい生活には、慣れるまでは苦労した。
はっきり言って、その規矩にいちいち意味を求めれば、苦痛になり逃げだすだろう。
日々の坐禅、掃除、作務など、その意義すら分からず、必死になってこなすのみだった。
実は、それでいいのだ。
理屈でがんじがらめになった心を、もともとある処へ戻しているだけなのだ。
長岡禅塾では、日本の伝統的精神の美しさが事上の練磨を通して体感される。
老大師の厳しい中にも温かさのある薫陶により、一枚一枚「我」の皮が剥がされてゆく。
老大師の室内に入り、参禅する心の高揚は何ものにも代えがたい経験だ。
功利や損得のためには、禅の修行など何の役にも立たないことが分かってくる。
しかし、人間の基本が薫陶され腹が据われば、何でもできるようになってくる。
成るようになるし、心配や不安があってもそこに囚われなくなる。
本当の自分はどこにあるのか、などと迷っていた自分が愛おしい。
問いがあるから、答えがあったのだ。
一所懸命迷ったから、くよくよしなくなったのだ。
そこまでには二、三十年かかるが、最初の一歩は長岡禅塾で老大師と寝起きを共にして、老大師の波動を毛穴から素直に受け入れることだ。
そうすれば、有難きことこの上ないと感動できるだろう。
本物を求める人には、ぜひ、お勧めする。
世界中のどこを探しても、こんなに得難い機会を無償で提供してくれる処はない。
嘘ではない。
(大阪府立大学 昭和55年~昭和60年通参)