「平常心是道」 大江貴皓
これを読んでいる皆さんは“禅”に何かしらの興味がある事と思います。
それは坐禅に対する興味かもしれないし、公案に対する興味、もしくは美しい庭園や伝統的な建築様式に対する興味かもしれません。
いずれにせよその多くが特別に映っている事と思います。
これから禅塾に入塾を検討されている皆さんにとっては特別な生活であり、特別な選択でしょう。
しかし、実際の禅塾での生活というのはその“特別”を離れる生活と言えます。
確かに禅塾での生活は一種独特です。
朝は早く、慣れない着物での生活や坐禅に読経、作務など、初めはこなすだけでも大変でしょう。
しかし禅塾と勉学の両輪を必死にこなす中で、それは特別な事ではなく日々の生活そのものになっていくでしょう。
これは坐禅会などで坐禅をする事と少々異なる点です。
かつて私がそうでしたが、坐禅会はどうしても非日常的で“特別”になりますし、会に参加する事の中に“禅”を見出しがちです。
しかし結局頭の中の“禅”も“本当の自分”も手を付けているところにそもそもの発端があるわけです。
平常の中にしか道はないと老師はおっしゃいます。
作務で草を抜くはたらきに、参禅へと運ぶ脚に、堂内に響く雨の音に。規矩を成り切ってこなす中で“禅”を離れる。
そこに禅塾で日々生活することの得難さがあります。
今は個人があらゆる情報にアクセス出来る時代です。
それ故にほんの些細な事にも意味が求められてしまう。
そういう中でこそ言葉から離れて活潑潑地のはたらきに気付く事がますます大事になってくるでしょう。
その事が今後若い皆さんが情報過多の現代を生き抜いていく上での大きな土台になる事は間違いありません。
その様な機会を是非自らの手で選びとって欲しいと思います。
(放送大学 平成28年4月~平成29年8月在塾)