長岡禅塾は財団法人(注、平成25年4月より公益財団法人に移行)であって宗教法人(言うところの寺院)ではない。
この辺にもこの塾の特色があると思うので、創建者と開山の話を中心に創設の経緯について少しふれておきたい。
岩井勝次郎翁像(双日株式会社所蔵)
禅塾は1939(昭和14)年に、岩井商店(現在、双日株式会社)の創業者である岩井勝次郎(いわいかつじろう)によって創建された。
勝次郎は1863(文久3)年、父蔭山源左衛門、母いとの次男として丹波国桑田郡旭町(現在、京都府亀岡市旭町)で呱々の声をあげた。
11歳のとき父を病気で失い、ために2年後、すでに大坂に出て西洋雑貨商を営み、かなり成功をおさめていた20歳ほど年上の従兄岩井文助のもとに職を求めた。
そして、そこで人柄と手腕を見込まれ、27歳のとき入り婿として文助の長女栄子と結婚、岩井勝次郎となるのである。
1896(明治29)年、文助に代って勝次郎が店主となると商号を新たに岩井商店とし、その優れた商才を発揮して外国貿易だけにとどまらず、次々に各種の工業会社を設立して事業を拡大していった。
ところで勝次郎は商店経営のうえでも道義を重んじることを第一とし、そうした精神の基礎を禅に求めて早くからその道を歩みはじめていた。
「君子は財を愛す。これを取るに道有り」である。
この点、岩井勝次郎は「高く眼を著ける」人であった。
1919(大正8)年、ついに彼は神戸御影にあった自分の別荘を改築して禅道場「伝芳庵」を設立した。
師家として、やがて長岡禅塾の初代塾長になる梅谷香洲(うめたにこうじゅう)老師を拝請し(ただし最初の一か月は橋本独山老師)、自ら参禅弁道に励みながら、その場所を広く社会人や神戸高等商業学校(現在、神戸大学)の学生たちにも開放した。
伝芳庵では毎日曜日に朝9時から坐禅、10時から提唱、11時から独参、このほかに臘八をふくむ年数回の大接心が行われていた。
この形式は、現在の禅塾でもほぼ踏襲されている。
この意味でも伝芳庵は長岡禅塾の前身であると言える。
「本(もと)立って道生ず」と言う。
そうして、そこに初めて真の価値も産出されよう。
政治経済などの文化的な価値を高く建設するためにも、一度その地盤をかぎりなく深く掘り返す必要がある。
すなわち、まずわれわれの心という本を無の底まで穿たねばならない。
昔の中国の名君は「無為にして治まる者」であったというではないか(ちなみに、これは現塾長の塾統理の基本と窺う)。
また禅の世界にも「無為の化」という言葉がある。
蛇足であろうが、ここで「無為」とは「無為無策」の意ではなく、「行じて行じず」底のことである。
近頃、その塾の出身者が初めてわが国の首相になったというので、松下政経塾がにわかに脚光を浴びてきたようである。
政経塾が政財界の指導者育成を目的とするところ、その方向性は少し長岡禅塾のそれと似ている。
しかし、そこに大本についての洞察が欠けているのは何としても惜しいことである。
いま岩井勝次郎の眼のつけどころに注意したのであるが、しかしなぜ禅であったのか。
ひとが禅の世界に深く参入するのには何か特別の機縁というものがあるものであるが、そのひとつに他の人の感化がある。
例えば、からっと生きている人をみて自分もあの人のように生きてみたい、そのようにつよく思ってその人の精神的バックボーンを調べてみると、そこに禅へのかかわりが見いだされ、それで自分も禅の世界に飛び込んでみるというようなことである。
法は人(にん)においてもっとも具体的に示されるとするなら、人を通して法に接近するそういう行き方こそ禅門をたたく上での本道ということになるだろう。
勝次郎が禅に関心をもちはじめたのには伊庭貞剛なる人物の影響があった。
伊庭貞剛とは天龍寺の適水や蛾山について禅の修行をした居士で、少年期から剣道によって培われた精神と相まって、よく腹のできた人であった。
そのはたらきは実業界において遺憾なく発揮され、1894(明治27)年に、当時住友財閥の中心的事業であった別子銅山でおこった新居浜製錬所の煙害に対する地元住民との紛争を、まさに「無為」の手法によって見事に解決してみせた。
勝次郎はそうした伊庭の何事にもとらわれず、ひたすら他のために粉骨砕身する姿に魅せられていたのである。
1896(明治29)年、独立営業をはじめた後、かねてより会社経営者としてより高い精神性を求めていた勝次郎は、尊敬する伊庭にそのことを相談してみたところ、寒山寺の松井全方和尚を紹介されることになる。
と言っても、筆者は残念ながら、この和尚のことにとんと通じていなのであるが、なんでも蛾山のもとで修行した人で、独山、台岳とともに蛾山門下の三幅対のひとりと言われたほどの傑僧であったようだ。
勝次郎は最初、この全方の指導をうけながら禅の道に精進したのであったが、間もなく全方が遷化してしまうという悲運に遭遇することになる。
そういうことがあって禅修行の場はさきに述べた「伝芳庵」へと移るわけである。
「伝芳庵」での指導者、梅谷香洲老師は幼にして神童といわれ、長じて「剃刀香洲」と恐れられたほど怜悧俊抜、切れあじ鋭い禅僧であった。
しかしその刀はもろ刃の刃でもあったのであり、自らを深く傷つけるようなこともあったようだ。
そうであったからこそ、宗門の外にでて、実社会で活躍する居士大姉を度生することを自らの使命とした。
このことはまた、住職資格を取ることだけを目的とするような禅宗僧侶を育てることに意義を認めようとしなかったと言われる老師の考えとも一致するものであったろう。
香洲老師の人柄については『傳芳夜話』のなかで多くのひとが語っているので、そのことの大方はそちらに譲ることにして、ここではその中から一話だけ選んで老師の面目を想起する頼りとしたい。
『「衲わしは今まで酒ばかり飲んで、父親らしいことを少しもしてやれなかった、堪忍してくれ」。
病床 の老師の娘達(敬子、祐子)に対する言葉であった。
娘達がしくしくと涙ぐむと、一転した老師 は、拳骨を振上げて「何を泣くか」。
吃驚して娘達が逃げ出すと、「と、言ったものさ」、笑って寝 返りをうたれた。』
(編輯子、これに対して「隠山下の活作略」と題するは宜なる哉)。
そういう香洲老師ではあったが、勝次郎との関係には格別なものがあった。
香洲老師は勝次郎より22歳若かったが、勝次郎にとって老師は法の上での師であったばかりでなく、仕事の面でも老師を慕ってよく相談もしていたようである。
しかし情の上ではさすがに勝次郎の方が父で、香洲老師は子であったといわれる。
そういうわけで、両人は賓主互換よろしきを得た知音同士であった。
さて第一次大戦中の成金景気からくる人心の荒廃を案じた勝次郎は、「当今、我国民教導ノ緊要ハ精神振興ニアリト痛感ス。……而シテ、ソノ教導ノ道、多々アランモ、余ハ之ヲ大乗禅ニ依ッテ究明、体得スルヲ最上ナリト信ズ」との信念から、やがて私財を投じてさらに規模の大きな本格的禅道場を創設することを構想しはじめることになる。
(「聖人の財を用いるを見るべし」)。
かくして、比叡山を北東に臨む現在の地に敷地を買い求め、財団法人長岡禅塾の設立にむけて着々と準備が進められ、1939(昭和14)年4月、ついに開塾式を迎えたのであったが、残念なことに勝次郎は右にその一部を引用した設立趣意書を書き上げて一か月もたたないうちに他界してしまったのである。
次に記す漢詩は禅塾設立の年、香洲老師が勝次郎の真影を前にして詠んだものである。
この詩に関するかぎり、冒韻があったり平仄が合わなかったりする箇所があって、あまり出来のよいものとは言いがたいが、法の上での弟子、情の上での父であった勝次郎の志を継承した初代塾長の心意気が高らかに詠じられているように思う。
岩井翁真影
興禅護国願心堅 興禅護国 願心堅く
末後猶留最上縁 末後 猶留む 最上の縁
請看長岡半辺地 請う 看よ 長岡半辺の地
無功徳底化三千 無功徳底 三千を化す
大体、次のような意味になろう。
岩井翁の禅を興し、国を護持せんとする願心は堅く、命終のときに至ってもなお最上の機縁を残された。
どうか看ていただきたい、長岡の地の一角を(そこに禅塾が建立されている)、そこでの無功徳底こそ、全世界を教化するものである。
このようにして、最勝院大徹無為居士(岩井勝次郎の法名)の宿願であった、主に大学生と雲水を対象とする、財団法人として日本最初の禅道場が誕生したわけである。
* 本稿の執筆には『創業者 岩井勝次郎』(関西ペイント株式会社、1995年)を参看させていただいた。